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「陰キャ」「陽キャ」の二分法的思考への傷つきと怒り

「根暗」という言葉が今や完全「陰キャ」というワードに置き換わった。

四十数年の人生で、僕は「根暗」「陰キャ」も、繰り返し繰り返し言われてきた。

この言葉を愛ある使い方をしている人は少数で、どこかに侮蔑や見下し、あるいは「人を陰キャと定義できる自分は、陰キャじゃない」という偽装、そして「俺は陽キャ側でよかった」という安堵を含んでいる。

僕が「陰キャ」という言葉をどのように捉えているかは、過去、感情的に書きなぐった下記の記事を読んでいただくとして

最も違和感があるのは、やっぱり言葉の定義である。

キャラを演じる行為は、人間がもつ多面的要素の単純化だ。

単純化は、複雑に入り組んでいる人の個性をシンプル化して、黒や白に分類しづらいグレーゾーンの領域を削ぎ落す作業。

サイコロの6面がその人の個性だとしたら、1の面だけをクローズアップして、「この人は1の人」と言っているに過ぎない。

誰でも陰陽合わせ持っている。しかし時として、人はその事実を忘れる。

人前で明るく振る舞っている人が、病んでしまったとき、悲しい結末を迎えてしまったとき「まさかあんな明るい人が…」と意外に感じるかもしれないが、こういう人は明るい人というより「意図的に明るい面を、普段から全面に出す振る舞いをしていた」というのが正確な表現ではないか。

芸能人の悲しいニュースが定期的に報道されている。僕は芸能人が心を病みやすい理由として「一面的なキャラをフォーカスせざるをえない職種だから」と考えている。

一面的な物の見方をされると「本当はそうじゃないのに」と落ち込むし、「本来の自分を理解されていない」と寂しさを覚える。

元来、人間は、複雑に設計されているのだ。

あの明石家さんまさんだって、陽の面を押し出して「お笑い怪獣」になるまでに、壮絶な過去があったわけだし深い悲しみを経験されている。

さんまさんが口にされている「俺は幸せな人を感動させたいんやなくて、泣いてる人を笑わせて幸せにしたいんや。これが俺の笑いの哲学や」という言葉は、たくさん傷ついたゆえに生まれたのだろう。

さんまさんは、悲しみを知悉しているからこそ「楽しく、明るく」の哲学を持つに至ったのだ。

人を陰陽に二分するのは楽ちんだが、土台無理がある。

控えめでで優しく内向的な人個性を、「陰キャ」というたった3文字の字面にぐいっと押し込むのは、意味の放棄であり言葉への冒涜でしかない。

しかしながら人の脳みそは、複雑性を嫌う。

「脳への負荷を減らすために、物事を極力単純化したい」というのは本能だろう。

相反する性質を持ち合わせていては「はたして、この人どっち!?」となるので、きっと都合が悪いのだ。

先日見た、リアライフカウンセラーが藤本シゲユキさんが、動画で「内向型人間の生き方」に対して興味深いことを語られていたので、紹介させていただこう。

要約すると
「外向型の人間がよしとされている文化圏の中で生きる、内向型の人間は自己受容しづらい」
「内向型という性質を否定する人とは関わらない方がいい」
「そういった人の言葉には耳を傾けないようにする」
といった旨をおっしゃっていた。

こうしてYouTubeを通してアウトプットされている藤本さんご自身も、実はかなりの内向型である。

藤本さんが、動画の中でおすすめしておられるジル・チャン氏の『「静かな人」の戦略書: 騒がしすぎるこの世界で内向型が静かな力を発揮する法』

著者のジル・チャン氏は『「超内向型」でありながら、超外向型社会アメリカで成功を収めた』と紹介されているが、外向型が日本よりも多いアメリカで超内向型の方が自分のスタイルを築き上げるために相当苦労されただろうし、否定されても屈しない強い意志の持ち主なのだろう。

本書の中で「陰キャ」という短絡的な言葉を用いず、内向的な人を「静かな人」と定義するジル・チャン氏の言葉選びには優しさを感じる。

今回の記事を書きながら気づいたのだが、こちらの持つ多面性への理解を放棄し、無神経に「根暗」「陰キャ」と定義される度に、僕は深く傷ついてきたのだ。

その傷がまだ癒えておらず、「陰キャ」という言葉を奔放に使う人を見る度、過敏な反応を示すのだろう。

内向型の人間が自分の特性を使って、自身に合った暮らしを手に入れるためには、環境を整えることだろう。

会社という組織はどうしてもイケイケの外向型が幅をきかせるし、声の大きな人の意見が通りやすい。至近距離ででかい声で主張されると「うっ…」となって、口を紡ぎたくなるのが内向型の特性だ。

うちは兄が「外向型こそ正義」という考えの持ち主だったので、彼と一緒に暮らしている期間は苦しくてたまらなかった。

内向的な自分を無理やり外向的に変えようとするという、辛い辛い作業に挑戦し何度も頓挫した。

周囲に迎合するため、無理やり特性を変えようとしても、良いことは何ひとつない。

生涯で2年間だけ会社勤めを経験したが、内向型の僕には耐える場面が多すぎて心身が激しく疲弊した。

会社をやめてひとりで仕事をできる環境が整ってからは、「こういう暮らし方が自分にフィットするんだ」と、ようやく実感できるようになった。

僕は「陰キャ」という言葉でマウントを取ってくる人間を未だ敵視しているし、言葉の意味を深く考えずキャッチーな言葉を無自覚に使う人間に腹が立つ。

そしてその怒りこそが、書くことの原動力になっている。

自身が言語化表現を習得する際、加速に関与したのは、デリカシーのない人間への憤怒であることは間違いない。

怒りは、僕という人間を突き動かすために必要なガソリンだ。

「書く」というアウトプット方法が見つかり、それによって生計を立てられるようになって心から良かったと思う。

「陰キャ」という乱暴な定義方法によって萎縮している人を見ると、昔の自分を見ているような気持ちになるし、僭越ながら「応援したい」「励ましたい」という気持ちになる。

あなたのことを深く理解する姿勢を持たないのに、乱暴な二分法でぶった斬ってくる人間など、はなから相手にする必要がない。

どんな個性を持っていてもいいし、その個性を輝かせる権利はみんな平等に持っている。

外向的だろうが内向的だろうが、どちらも個性に違いはない。

優劣をつけようとするから、おかしなことになるのだ。

どうか、かけがえのない、生まれ持った個性を大切にしてほしい。

まあ、こうして些事へこだわり続ける僕の性質を見て、人が「こいつやっぱり陰キャだな」「細かくて面倒くさい奴」と言いたくなる心理については、もちろん理解できるが。

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