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感情、体験、内面を書く「つらいことから書いてみようか」近藤勝重

2023年の下半期に入ったタイミングで、noteに投稿する内容を変えて、書きたくなかったこと、書くのを避けてきたことを記すようになりました。

最初は「こんなこと書いていいのかな?」「引かれないかな?」といった不安や恐怖がありましたが、迷ったときは「えいや!」と、前に出ることにしています。

「痛み」「恥じ」にまつわる記憶を書くということは、僕の中で勇気がいることでした。

そして、そういったセンシティブな内容は読んでいる人の傷を刺激したり、開けてしまう可能性がゼロではありません。

僕が繋らせていただいているnoterの方達は、短絡的に他罰、他責に走らない内省的な方、そして誠実な方が多いです。

僕は昔から長期的に良好な関係を結べるのが、そういった性格の方々ばかりなので、自然と良い縁が残っていく感じがしています。

記事へ下さったコメントを通じて「同じ問題に向き合っておられる」など、これまでになかったつながりを感じられるようになりました。

文章を通じた交流

先日、コラムニストでジャーナリストの近藤勝重さんの「つらいことから書いてみようか」を読みました。

小学生の子供達に「つらいことを書いてみてください」と提案する近藤さん。

近藤さんは、「文は文章は竹林、一本の竹、節は文節」と表現されていました。

竹が生えている土壌が何かといえば、各々の体験になります。

これまで僕は文章を通じて情報系の発信をしていましたが、それはどこか借り物の知識という感じがして、物足りないところもありました。

子供達が勇気を出して書いた「つらいこと」を近藤さんは愛情深く関心を示して受容します。

「文章を書くのが嫌いだったけど、近藤先生の授業を受けて大好きになりました」という子供たちの変化には心を打たれました。

文章を通じて深い交流が生まれているんですね。

「自分も、こういう受け止めてくれる先生と子供時代に出会いたかった」と思いました。


ゆっくり丁寧に書く

近藤さんは子供達に「つらいことを書いても。もう一人の自分が励ましてくれたりする。なんか自分が変われるじゃない。なんか気持ちが優しくなれるじゃない。そう思いませんか」と語りかけます。

この感覚は最近のnote書いていて、すごくあるんです。

見栄を張りたがる格好つけな自分との闘いではあるのですが、この頃のnoteは、「正直に丁寧に」という姿勢を心がけています。

タイピング速度を上げると、ライターキャラの自分がすぐ現れてしまいお仕事モードのライティングになりかねません。

それは自分をあざむくことに繋がるので、noteを書くときはゆっくりゆっくり速度を落として記します。

noteを投稿する文章はパソコンで書いているのですが、感覚としては手書きで手紙を書いている感じに近いですね。

日誌の記憶

今日のnoteを書いていて、また記憶の蓋が開き、久しぶりに思い出したことがあったので書かせてもらいます。

高校生の頃、思春期の煮詰まりで周囲になじめくクラスで孤立していた頃の話。

そのときの担任の先生は京大出身の変わった人でしたが、生徒へしっかり向き合い関心を示してくれる人でした。

僕はどうも昔から、孤高の変人タイプと馬が合うようです。

日直をした際に、日誌の中に好きなことを書いていい枠があり、そこで僕が少しふざけたことを書くと、その先生は「自分、おもろいやん。そんな奴やったとは知らなんだ。次も楽しみにしてる!」と文章を返してくれました。

たったこれだけの交流なのに、ずっと印象に残っていますね。

辛かった高校時代に数少ない心の交流が生まれた瞬間だったので、僕にとって大切な思い出になっています。



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