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吉村昭『羆嵐』を、B級サメ映画と比較しながら語るわよっ!

イントロ

 私は、サメ映画が好きである。特に、友人と薄暗い部屋で宅飲みをしているときに、B級サメ映画を垂れ流しながら、ポテト・チップスとぬるいハイボールを飲むのは格別だ。そこでは、誰も映画に興味がない。ゆえに没入できる。
 『ジョーズ』をはじめ、サメ映画は、巨大生物であるサメが、平穏な人間社会への闖入者であるとして描かれる。竜巻に乗ったサメがロサンゼルス(Los Angeles)に襲いかかる『シャークネード』は、描写こそ乱雑であるものの、自然現象による社会秩序の崩壊への恐怖を抉り出すものである。『ハウス・シャーク』はその最たるもので、家のトイレ―—平穏な自宅は、自然環境から最もかけ離れたものである――からサメが飛び出してくるという荒唐無稽な描写が話題を呼んだ。

『ハウス・シャーク』にて、なぜか光線銃を構えるサメ
(今どきのサメは光線銃を装備しているらしい)

 ところで、「Wikipedia文学」という概念がある。これは、読み物として秀逸な記事を総括するもので、例えば、「地方病」等がこれにあたる。初めは一地方に蔓延る伝染病であるとされていた或る病を、学者たちが、その懸命な努力によって、寄生虫による病理であると暴き出し、克服・撲滅するまでの壮絶な実話である。
 「三毛別羆事件」も、秀逸なWikipedia文学の一つであり、ご存じの読者も多かろう。舞台は1915年、当時は開拓期にあった北海道の六線沢。一頭のエゾヒグマが、開拓民の集落を二度にわたって襲撃し、死者7人・負傷者3人を出した、「日本最大の熊害」と言われる事件である。まずはWikipediaの記事を寝る前に読んでほしい。興味を惹かれること間違いなしであろう。
 私もまた、中高生時代に感動を覚えつつ右記事を読破した者の一人である。昨日の神保町のブックフェスにおいて、同事件をモチーフにした小説である『羆嵐』が販売されていたので、購入し、その日のうちに読み終えた。以下は、その簡単なブック・レビューである。

闖入者としてのニンゲン

 さて、『羆嵐』において、ヒグマは、先述した『ジョーズ』や『シャークネード』、『ハウス・シャーク』とは異なり、人間社会への闖入者として描かれることはない。

 「六線沢は未開の山林中に位置し,そこに村落が形成されたのは,自然の秩序の中に人間が強引に闖入してきたことを意味する。当然,その地には古くから棲みついた鳥獣がいて,人間はそれら鳥獣との同居によって生活を営んでいる」

羆嵐

 吉村昭は、むしろ、人間こそが自然界の秩序に対する闖入者であると位置づけている。すると、あくまでも人間と鳥獣との間に明確な差異は存在しないのである。屯田兵といえば、誰しもが中学社会で学習したことであろう。北海道の開拓時代という特異な時代が、自然優位な環境を創りあげている。
 この点は、先述したサメ映画の影響もあって、巨大な羆が人間社会への闖入者であることを前提に本作を読み始めた僕にとって、きわめて衝撃的であった。

 『羆嵐』では、人間……もといニンゲンは、動物的に描写される。羆に恐怖する人間は、草食獣のように群がる。草食獣は、本能的に群れることで、仲間が喰われている間に自身の生存確率を向上させるのである。羆に食われる妊婦は、本能的に胎児を守ろうとする。一見、うつくしい自己犠牲の精神に見える。しかし、リチャード・ドーキンスが「利己的な遺伝子」で述べるように、種の生存という側面では、子を生存させた方が合理的な選択であり、きわめて動物的な行動なのである。

 人間が構築した社会・秩序は、動物的な習性によるものに過ぎないのかもしれない。本作に登場する農民たちや、警察等の組織は、その脆弱性を強調して描かれる。作中において。自然秩序VS人間秩序という構図で挑まれた闘いは、ことごとく失敗に終わるのである。
 しかし、ただ一人、素行は悪いものの、自然の中で生きる狩人・銀四郎だけが、その単独行動のなかで、ヒグマと対等に渡り合う。いわば、ここでは、自然秩序VS自然秩序という構図が形成されるのである。彼は最終的にヒグマを討ち取ることになる。
 本作は、自然・社会との対比表現がすごく丁寧で、ヒグマという強大な自然的存在(大地震や台風などでもこの話は成立するだろう)が、人間の動物性を露にするという構図が、説得的に描かれている。

 この点において、『羆嵐』は、サメ映画とは全く異なるテーゼを示している。『シャークネード』は、ヘリコプターやグレネードという文明の利器を駆使してロサンゼルスに発生したサメを撃退する。人間社会がサメという自然的存在に勝利するという痛快な構図である。『ディープブルー』もまた、研究所職員たちという人間社会の権化が、火薬でサメを爆発させることで撃破するというオチである。いずれも、サメという自然的存在に対する、人間社会の勝利というプロットである。
 もっとも、『ジョーズ』は、この限りではなく、偏屈なサメハンターが中心になってサメを撃破するというプロットである。サメとの勝負にこだわるサメハンターは、主人公が沿岸警備隊に無線で救助を求めようとするも、無線機を破壊するシーンがある。いわば、これは文明社会との決別であり、あくまで自然的存在(サメ)に対して、自然的存在(ニンゲン)として立ち向かった映画であるとみることができる。このあたりに、ジョーズが名作とされている所以があると私は考える。
 なお、『コマンドーシャーク』は、新生ソヴィエト軍が、ナチスドイツの科学者が生み出した殺人サメ部隊を率いて、アメリカに侵攻するという、人間社会VS人間社会の構図を有する希少なサメ映画なのであるが、紙幅の都合により、涙を呑んで言及を省略せざるを得ない。

以上


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