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教師になりそして辞めるまでの、すべてを記します|本物の「#教師のバトン」

映画を観る意味

休日にふとテレビを観たら、「中居正広の土曜日な会」で清水ミチコさんが映画館について語っている場面を目にした。

「落ち込んだときはよく映画館に行っていた」

「自分が0の状態になって、他人の人生を追体験できる」

そんなようなことを話していた。

僕は映画館に行くのが好きだ。

中学生のころから、客が2人しかいない映画館で生田斗真さん主演の「人間失格」を観に行くほど、映画館を愛している。

その時は14.5歳だったから、どうして自分がこれほどまでに映画館が好きなのか、分からなかった。

だけど、清水ミチコさんの言葉を聞いて、確信した。

「そうだ。僕は自分をゼロにして、誰かの人生を追体験したかったんだな」

「きっと、現実から逃げたかったんだろうな」


不登校になった友だち

僕が通っていた中学校は、その当時では珍しく昭和の軍隊風土の名残がある、厳しい指導をする学校だった。

というより、その学年の先生たちが厳しかった。

きっと、生徒に反発されることを恐れていたのだと思う。

「先生たちはみんな、怖かったんだろうな」

生徒との関わり方や抑圧しなくても学級経営ができることを、知らなかったのだと思う。

僕は中学生ながらに、その「行き過ぎた厳しさ」に違和感を感じていた。

中学1年生のある日、

小学校から一緒だった友だちが、学校に来なくなった。

厳しすぎる校風に馴染めなかったようだった。

「迷惑かもしれない」

そう思いながらも僕は、彼の家に通った。たとえ彼が家から出てこなくても、友達と二人で、彼を迎えに行く朝を過ごしていた時期があった。

いつも彼のお母さんと小さな妹が出てきてくれた。

お母さんと他愛ない話をしたり、時には彼の妹と遊んだりもした。

そして、たまにパジャマのままの彼が顔を出してくれた。

一緒に登校するという目標は叶わなかったけれど、彼の顔を見れた日はとてもうれしかった。

彼が今何をしているのか、どこにいるのかも、僕は知らない。


振り落とされた人間を見捨てる社会が嫌いだ

そのころから僕は、社会に対して不満をもっていた。

先生が忙しいのは分かる。でも、担任は何をやっているんだ。

学校には来ていないかもしれない。でも目の前で苦しんでいる生徒に、お前は何もしてないじゃないか。もしかしたら僕の見えないところで何かしていたのかもしれない。でも中学生の僕からは、そうは見えなかった。学校で配布されたプリントを、僕たちが彼の家に持っていくこともあった。

学校が原因なのに、どうして生徒である僕たちが迎えに行き、担任は何もしないのか。

きっと怖かったんだろう。

だって、不登校の彼と向き合うということは、自分たちがやっている教育を否定しなければならないから。

そこまで強い意志をもって、教育に携わってはいなかったんだろうな。

だったら教師なんてやるなよ。

そうだ、僕がなってやる。

教師になってやる。

そして見返してやるんだ。

お前らがやっていた"教育"は、偽物なんだって。

僕が証明してやる。

振り落とされた人間を見捨てる社会が嫌いだ。

だから僕はそれを、自分の手で否定したかった。

教師になる

そんなこんなで僕は教員養成のための大学に入学した。

早稲田大学教育学部に補欠合格していた僕は、最後まで早稲田にするのか、国立大に行くのか、迷っていた。

きっと早稲田大学の方が全国的に有名で、将来的にもネームバリューを活かせるだろうと思った。

結果的に僕は国立大学を選んだ。

学費の安さも一つの要因ではある。

でも、一番の理由は「教師になりたかったから」だった。

卒業生が先生になる割合が、早稲田大学より僕が卒業した国立大の方が高かった。(結果、僕の入った学科では半分しか教員にならなかったけど。)

だから、国立大学にした。

その決断をするとき、僕は中学で学校に来られなくなった彼を思い出した。

僕はあの悲しい現実を、僕の手で塗り替えたかった。

過去に戻ることはできない。

だから、彼が学校に来て一緒に学んで、一緒に遊んで、一緒に話して…

そんな理想はもう叶わない。

それでも、学校に行きづらい子どもはたくさんいる。

僕が彼に何かをすることはできないけれど、今の子ども達にならできることがあると思った。

こんな理由、教員採用面接では話せない。

僕は適当な理由に換えて、それでも面接を通過した。

複雑な気持ちだった。

「面接なんてどうせ、その人の側しかみることができないんだな。」

「こんな理由でも受かるんだ。ばからしい。」

「でも、受かったからにはやってやるぞ。待ってろよ。」

そんなこんなで僕は教師になった。


教師1年目の挫折

思いだけ立派な僕だったけれど、現実はそんなに甘くはなかった。

僕は、教師1年目で1年生の担任を受け持つことになった。

教師も子どもも1年生。

当然ながら、うまくいかないことが多かった。


エスケープする児童がいた。

スクールカウンセラーは愛着障害だと言った。

1年を通して、彼は教室の外に出ることはなくなった。


日本語の分からない児童がいた。

彼は家で英語を使っているようだった。

結局、日本語はあまり上達しなかった。


文字をうまく書くことができず、感情をコントロールできない児童がいた。

キレると隅っこで駄々をこねたり時には物に当たったりすることもあった。

コロナ禍で臨時休校になり、最後に一回だけあった登校日

1年〇組が終わることを告げると、

その子一人が歓喜の雄たけびを上げた。

そのころはもう、クラスは安定していた。

だから慢心していた。

でも、僕は思った。

「この1年間、きっと僕はうまく学級経営ができなかったんだな。」

「来年、必ずうまくやってやる。絶対に。」

(次年度にまた彼のいる学級を担任し、最後のお別れ会で彼が泣きながらクラスの子ども達にメッセージを伝えたこと、僕以外の担任は嫌だと泣いていたことは、また別の機会にお話しします。)


教師として、不登校の子どもと関わって

初めてで何も分からなかった1年目。

僕は大きな失敗をしかけた。

結果として、学校に戻ってくることができ、何なら「先生が好き」と言われるくらいまで信頼を取り戻すことができた。

ただ、そこまでの道のりはとてつもなく険しいものだった。

1年生が学校に慣れ始めた6月頃、

突然、彼は学校に行きたいくないとごねるようになったそうだ。

理由を聞くと、

「凜。先生がつまらないから」と。

指導教員の先生は、僕をフォローしてくださったが、それは事実だと思った。

思うように指導ができていなかった。


「でも、受かったからにはやってやるぞ。待ってろよ。」


採用前、偉そうに意気込んでいた僕の姿は、もうそこにはなかった。

どうすればいいのか、分からなかった。

不登校の子どもを救いたいと思って教師になった自分が、この子を不登校にしてしまうかもしれない。

そんな現実に押しつぶされそうになった。

「逃げちゃだめだ。」

エヴァンゲリオンのシンジくんのセリフが響いたのは、この時が初めてだった。

ここで逃げたら、僕が通った中学校のあの教師たちと同じになってしまう。

それだけは嫌だった。

何より、その子に申し訳なかった。

自分が教師になんてならなければ、この子は今頃学校で楽しく学んで楽しく遊んでいたかもしれないのに。

後悔したからといって誰かがどうにかしてくれるわけではない。

僕はもう社会に出ている大人なのだから、君の担任だから、

自分でどうにかするしかないと思った。

それから僕は、彼の家に家庭訪問するようになった。

最初のころは、顔も見せてくれなかった。

それはそうだろう「つまらない先生」なのだから。

お母さんと話をして、そのまま学校に戻る。

そんな日もあった。

それでも「力不足の自分」から逃げたくなかった。

「逃げちゃだめだ。」

ここで逃げて、誰かのせいにしたって、現実は何も変わらない。あきらめたくはなかった。

僕は、彼の家に通い続けた。

それでも思うようにはいかず、心は折れかけていた。


雨の日の帰り道、合羽を着て自転車を漕ぐ。

歩道橋の下で、立ち止まる。

「もう先生を続けられないかもしれない」

そう思うと涙が出てくる。

涙を雨に流して、僕は家に帰った。


「もうだめかもしれない」

心が折れかけていたある日、彼に変化がみられるようになった。

初めは母親と一緒に、学校に来るようになった。

彼が席に座り友達と過ごす様子を、お母さんは教室の中で、そして段々と教室の外で、最後には家で、見守ってくれた。

指導教員の先生やスクールカウンセラーの先生が、アドバイスをくれたり一緒に動いてくれたりした。

周りの人に支えられながら、何とか彼を学校に戻すことができた。

すべての不登校児童が、学校に戻るべきだとは思わない。

フリースクールのように、別の選択肢はあってしかるべきだと思う。

でもその子の場合は、スポーツが得意で勉強もそこそこできる、

友達関係もうまくやれる子だった。

決して学校という場所に馴染めないわけじゃない。

だから、再び登校できるようになって、本当によかったと思う。

1年も終わりに差し掛かった2月。

彼の母親から1本の電話があった。

「いろいろありましたけど、今では凜。先生のことが大好きだと、家で言っています。1年間ありがとうございました。」

その言葉は、僕にとっての救いだった。

あの時あきらめなくて、逃げ出さなくてよかったと、

心の底から、そう思うことができた。

「先生になってよかった」

心の声が溢れ出しそうになった。

「お母さんにはご負担をかけてしまいましたが、○○くんが楽しく学校に通えているようで何よりです。」

こんな上手に伝えられていなかったかもしれないけれど、お母さんにはそんな気持ちを伝えた。


思いはあるけど、スキルが足りないと感じているすべての先生へ

私は2024年3月31日をもって、教職から退きます。

それにはここでは話しきれないほどたくさんのわけがあります。

ただ一つ言えることがあるとすれば、

「今困っている先生のために、僕ができる限りのことをしたい」

そんな思いがあったという理由です。

児童を不登校にさせかけてしまう不甲斐ない僕ですが、その後も試行錯誤を重ねたおかげで、1年目と比べると随分と指導力が向上しました。

本当は、教壇に立ってやりたいことがたくさんあります。

卒業を見届けたかった子ども達もいます。

それでも、僕は教師を辞めます。

今困っている、今苦しんでいる先生のために。

私はこれからこのnoteやyoutubeで発信活動をしていきます。

つらい思いをしている先生の助けになれる、そんな活動をしていきます。

今はまだ、名もなき一人の教師です。

でもいつか必ず、たくさんの人に言葉を届けられる人間になりたいと思います。

いや、なります。

だからもし、この文章を読んで少しでも心が動いたという方は、ぜひフォローやいいねをお願いします。

あなたのその1タップを、私は絶対に無駄にはしません。

私を応援しようと行動してくれたあなたのために、

私は私の大切な人生の時間を使います。

今困っている先生を救える人間に、

そして、今困っている子ども達を救える人間になるために。


【余談】フリースクールを開業する夢

数ある文章の中で、しかもこんな長ったらしい文章を、最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます。

せっかくなので、そんなあなたに一つ、私の夢についてお話しようと思います。

私の夢は、

「自分ができる範囲で社会的に弱い立場の人、今困っている人から頼られ、そしてその人たちを自立させることができる人間になる」

というものです。

その一つの取り組みとして、将来フリースクールを設立します。

ただ、フリースクールはまだ公的支援が不足していて、実態はほとんど慈善事業のようなものです。(もしくは通う児童生徒の親からある程度のお金を取るか、です。)

もし私がフリースクールを立ち上げるときには、

ぜひあなたのお力をお貸しいただけたらと思っています。

このnoteやyoutubeを通して、私はあなたに僕の大切な経験を与え続けます。

あなたがどこかへ行ってしまったときも、僕はずっとここにいます。

だから、もしその時がきたら、あなたのお力を貸してください。

何者でもない、一人の教師より。


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