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映画 淑女と髯(1931年) の感想。引き寄せと正負の法則 「今更」を超えて

マニアックな記事にお立ち寄りいただきありがとうございます。皆様の記事には不定期にお邪魔させていただいています。「うわ、何か今頃来た!意味あるの?」と怖がらないでくださいね😆いただいたスキから、マイペースにお邪魔することが多いです。

『淑女と髯』(1931)日本映画


今回取り上げるのは、1931年(昭和6年)のサイレント映画『淑女と髯』です。原作脚色は北村小松。小津安二郎が監督とギャグマンを務めるナンセンス喜劇です。

ギャグマンというのはギャグの作者のことだそうで、小津安二郎がジェームス槇というペンネームでシナリオ作成に参加しています(Xの広告で見た「カンブリア牧」的な響き)。

クレジットタイトルは冒頭で流れるのですが、始まるや否や独特のフォントで「ギヤッグマン ヂェームス槇」と表記されていてレトロ感満載です。中間字幕の会話もレトロ。映画の公表後70年以上経ち、著作権は切れているようですのでそのまま引用します。

「ぢや僕 失敬する 又やって来給へ 家へ! お揃ひで!!」

といった具合です。ああ、いいですねぇ。言葉、衣装、インテリアなど、大正ロマン〜昭和モダンが好きな方は、お宝が発見できるかもしれません。画質は良いとは言えないため、実は字幕化されていないシーンは未だ正確には分からないところもありますが、分かり次第加筆してゆきます。

来たる11月12日には、WOWOWにて現代リメイクが放送・配信されます。小津安二郎の生誕120年を記念した企画、「連続ドラマW OZU ~小津安二郎が描いた物語~」の第4話が『淑女と髯』だそうです。これに間に合うように書きました。

当記事はネタバレを含みますのでご注意くださいね。

『淑女と髯』あらすじ、登場人物

ヒゲを生やしたバンカラ(蛮から)な大学生の岡島は、ヒゲを剃った途端、就職に成功。女性からも急にモテ始めます。随所に笑いが散りばめられたラブコメディです。

漫画のような設定ですが、岡田時彦の演技が秀逸で、新鮮な驚きに満ちています。女の子たちも個性的で、それぞれ時代を映しています。

中でも川崎弘子が演じるヒロインの広子のいじらしさや芯の強さ、清らかさが堪らなくいとおしいです。M女の感性に通じるものがあるような。※初めましての方は下記リンクをご覧ください。

『淑女と髯』の主要人物です。ここから先、役名ではなく役者さんの名前に統一します。

  • 岡田時彦・・・剣道選手。髯を生やしたバンカラな大学生

  • 月田一郎・・・男爵の息子。優男やさおとこで、岡田と仲良し

  • 飯塚敏子・・・月田の妹。(つまり華族のご令嬢)

  • 川崎弘子・・・タイピスト。慎み深い女性

  • 伊達里子・・・不良のモダンガール(モガ)

  • 坂本武・・・家令(執事)

人物の説明だけでも、今は使われていない古めかしい言葉が多いですね。なお上記には書かなかったものの、母親役も飯田蝶子、吉川満子、葛城文子と超豪華です。

粘り強く、潔い。お金の掛からない開運法則

では物語を紐解いてまいります。

保守的でヒゲ面の岡田は、剣道大会に優勝し、友人の月田から家に招かれます。「とにかく今日 家に来いよ。妹の誕生日だし、祝杯をあげよう!!」と。

月田はお坊ちゃんですが嫌味のない性格で、普通に男として岡田のファンです。終始微笑ましい。しかし月田の妹はというと岡田を毛嫌いしており、誕生会の日に岡田が訪れたことを知り猛抗議します。

「お兄さんてば 又あの髯ッ面 つれて来たの?帰して頂戴! 気分が こわれるから。私達は あんな時代おくれ 大きらい!!」と。

うーん、酷い言われようです。まあ「うら若きお嬢さんはヒゲもじゃの岡田をあれだけ毛嫌いしていたのに、ヒゲを剃るとコロっと落ちる」というのも大事なコメディ要素だから仕方ないのですが。

(でもこっそり書いちゃうと、影響力のあるお嬢さんが誰かを名指しで「大嫌い」と騒ぎ立てると、自分は本当は嫌いじゃなくても合わせちゃう子がいるんじゃないかとおばちゃんは要らぬ心配をしました。例えばこの時点で岡田と交際でもしたら、仲間外れされそうな勢い。汗)

やっぱり個人的には、最初から最後まで微笑みの人だった川崎弘子が好みです。単に微笑んでいるお人形さんという訳でもなく、嫌な縁談は断ったり素直に相談して母親を頼ったりと、自分の感情や意見もしっかり持っていて、芯が強いです。強いのにトゲトゲしていなくていとおしいんです。ああ、見習いたい。

伊達里子もせっかく美人なのだし、腐っていると人生勿体無いです。洋装も似合っていてお洒落。結末は、あっぱれでした。

そうそう、日常でも映画鑑賞でもK-POPでも、女性を目で追うことが多い私ですが、岡田時彦にはすごく色気を感じました。剣道の腕は見事なのに無駄に暴力的ではありませんし、自分の美学をしっかり持っていますよね。そういう信頼があるから魅力が増すのかもしれません。

もし舞台が現代で、中身も現代っ子だったとしたら、どうなるでしょう。友人の妹の誕生会に呼ばれた側なのに、いざ行くと反応が最悪だなんて。恥をかき、怒ったり傷ついたりしますよね。今であればSNSに書き込み、炎上するかもしれません。

「大体、大会の祝杯を上げようと月田に言われたから行ったのに、あのアウェイ感はあり得ねえ。俺の実力理解出来ない奴らと絡むのまじだるい。悪いけど月田には愛想尽きた」と。(ラップ調?…汗)暴露大会、もしくはブロック、自分も”ただ酒”に乗り気だったことは忘れちゃっています。

その後、妹たちがアポ無しの訪問をしたタイミングも最悪だったので、閲覧者から「特大ブーメラン」「どっちもどっち」と書かれてしまうでしょうか。ああ、SNSあるある、悲しい人間の性。でも誰もがこうなる可能性がある時代だと思います。私だって他人事ではありませんから、上からではなく自戒を込めて。

昭和初期の映画は対人関係が温かく、礼節がありながらも割とあっさりしていることが多いです。意見の対立や軋轢があっても、謝られたり納得のいく事情を説明されたりしたら、「分かった。それなら」という具合に切り替えて対応します。不良は、"真人間"(すごい言葉だ)になれるよう家族や社会で見届けます。また、荒ぶったりヒステリックになっている人には「そう興奮しないで」と嗜めます。

仕事や恋愛で、勝っても負けても潔いんですよね。マウントの勝敗ではなく、「ああ、なるほど。相手はこんな素敵な人だったのか」と納得し、認めるような感覚と申しますか。こういう場面、昭和初期の映画で割と見かけました。映画の尺の関係や、検閲などの大人の事情で・・・という側面も否めないでしょうけれど、でも健全なオチは心が整いほっとします。

映画だけでなく、美輪明宏さん(88歳)、神田橋條治先生(86歳)などの本を読んでいても、昔の日本人は現代っ子より精神が粘り強く、でもあっさりしていて潔いのかな感じていました現代人の「心が折れやすい、キレやすい、傷が残りやすい」と真逆かもしれません。社会がそうさせてしまったのでしょう。本人たちだって辛いのですから。

私自身も心が折れやすく傷が残りやすい方でしたが、摂食障害も治り年齢も重ねて来たからか、気質が変わって来て、最近は肝っ玉母ちゃんのようになりました。その結果、生きづらさがかなり減りましたし、願いも叶えやすくなりました。栄養・運動・環境など、要因は様々だと思います。(追い詰められたHSPはBPDに似ていると言われますが、年齢と共に落ち着いて来たようです。加齢を味方に出来るのは不思議)

引き寄せの法則もあるし、それだけじゃないから

時代劇の勧善懲悪とまではいかなくても、昭和初期の映画は分かりやすく、自己中心的・支配的・そして自暴自棄になる(ヤケを起こす)人物の願いは成就しない、恋も実らないというパターンが多いですね。

月田の妹の縁談相手もそうです。悪いことしているのが母親にバレて良かった。母親の威厳が非常にあるところも現代とは異なりますね。

思い出すのは映画『嫁ぐ日まで』(1940年)。ヒロインの原節子を狙っている、淳さん(大川平八郎)。叔母さんから「淳さん利己主義ねえ」「オポチュニストだから、お嫁のなり手が無いんじゃない」とまで言われちゃっています。悪人ではないのですが、自分のことばかり考えていて御都合主義者なんですね。原節子には勿体無いとやはり思いました。引き寄せですね。

では、「やましいことなく清く博愛に生きていたら悪縁は無いのか」「良きご縁に恵まれ仕事も家庭も上手く行くのか」というと、世の中そればかりではありません。

引き寄せの法則は「自己波動責任」というか「全ては自分が引き寄せた。嫌な人と同質のものを持っていたから」のように言われますが、自己研鑽していても、愛と笑顔で行動しても、知らないうちに嫉妬されたり・カモにされたり・偽善者と叩かれたりすることがありますよね。

とはいえ「明朗快活に生きていても嫌なことを引き寄せるなら、じゃあ悪いことしてでも願いを叶えたもの勝ち」?私はそうではないと思います。やはり見えない努力、陰徳を積んで願いを叶えることが、自他を苦しめないですから。陰徳だから、努力が表に書かれないので一見分かりづらいのです。

過去の小さな感謝を温め、今の自分を強化する

最終章です。昭和初期の日本映画を繰り返し見ていると、昔の思い出が蘇って来ます。私は機能不全家族で育ったことをnoteに書いていますが、3歳くらいまでは祖父母と同じ敷地内に住んでおり、比較的健康で文化的な環境だったと思われます。祖父母も元気で曽祖母の家もまだあり、昭和の初め頃や、もしかしたら大正の文化の名残も残っていたかもしれません。

幼い頃、裁縫道具の針刺し(針山、ピンクッション)の中に、人の髪の毛が入っていると気付いたことがあり、気持ち悪くて怯えたことがありました。

『淑女と髯』の終盤で、裁縫が出来ない二人がせっせと針で頭を擦る場面があります。「何度も頭を擦っているなぁ。あ!髪の油をつけているのか。そういえば昔、針刺しの中身が人毛だった!」と思い出しました。

現在は曽祖母の家も祖父母の家も残っていませんが、頭の中にはちゃんと描けます。自分の中にある故郷です。(むしろ、夢の中では20歳より前に住んだ家が出てきます。引越しが多いせいか新しい家は出て来ない)

故郷や家族の思い出だけでなく、終わってしまった恋愛や友愛も、そのときは全くその意味が分からなくても「意味があるように生きていく、意味を作る」「仮に全くプラスの意味を見出せなくても、それを機に別の新しい幸せを享受できる自分になる」としていること。これは私が生きる上で身につけた、あまりお金のかからない、でも大変大きな開運力です。

映画の伊達里子にも、これから試練や内外からの誘惑があると思いますが(今更という気持ちは私自身も沢山持ちました)、乗り越えて是非幸せになって欲しいです。

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