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『海と毒薬』遠藤周作

残酷なニュースが流れていたらテレビの電源を切れる時代に。情報を取捨選択し、見たく無いものから目を背けることの出来る時代に、わざわざ重々しい小説を読む理由は、痛みを知らないでのうのうと過ごす人間にはなりたくないからである。

『海と毒薬』は戦争末期、実際に起きた事件を元にしたフィクションである。九州の大学附属病院で行われた米軍捕虜生体解剖実験を通して、人間の罪意識について問う小説だ。

タイトルにある「海」は病院の屋上から見える黒々しい海を指し、「毒薬」とは言葉通りの薬(作品中のエーテル)と、「人間の意志や良心を麻痺させる状況」という二種の意味が掛かっている。

空襲が起き、人が死ぬのが当たり前の時代。病院で働く医者たちにとって血や死は誰よりも身近にある。一つ一つに感傷的になっていては務まらない彼らに、舞い込んできたのは医学進歩のための米軍捕虜の解剖実験だった。

まず物語の構造が面白い。最初は医師たち目線ではなく、一般人の目線から進み不穏な空気を醸し出しながら始まる。二章からはいよいよ本題へと入っていき、解剖実験に関わる一人一人について深く掘り下げる。そして三章が実験だ。

実験中の様子よりも、人間の揺れ動く心情に目をつけて書かれたことで「ノンフィクション」だとか「事件小説」に収まらずに、「物語」として受け入れることが出来た。
また「人」を深堀しているということは必然的に感情移入もしやすくなる。もしも自分がこの立場だったら、と誰もが考えたのでは無いだろうか。

解説にも書かれていたが、この作品の主題は「罪と罰」だ。誰もが簡単に死ぬ時代で出世争いに目が無い部長、小賢しく生きる術を身につけ良心が傷つかない研究医、周りに流される臆病な研究医など、実験に関わった人物たちは何かしらの思いを抱えて実験に臨む。生きたまま殺す残酷な行為をした医師らだが、その行動は頭の狂ったサイコパスという言葉で片付けられない「人間の醜さ」が隠れている。

物語は一章の世界線に戻ることはない。
実験を終えた後、海を眺めながら研修医の二人が明日からも続く日々について語り合う。「どうなるかな」と話す二人だが、もちろん世間にバレては大変なことになる。「明日からも変わらない日々が続く」と言って終わるが、実際起きた事件だと知っている読者はその後彼らはどんな道を踏むのだろう、と知りたくなる欲求を止めることはできない。

遠藤周作の作品を読むのは初めてだったが、読んで良かったと思った。重々しい主題を読者にその空気感を伝えるのはどれだけ大変だろう。細部に拘ったからこそ、この問題の重さや苦しさ、病院内の雰囲気が私たちに鮮明に届くのだ、と感じた。

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