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『蜜蜂と遠雷』恩田陸

小学校の国語の授業で〈物語〉というのは「主人公の成長」だと習った。中学生になったらそれは「心情の変化」、高校ではどう習っただろう。『蜜蜂と遠雷』は物語の完成形だと私は感じた。読むのは何度目だろう、と分からなくなるくらいこの作品を読んだ。何度読んでも大作で、言葉も選ばず手放しに賞賛してしまう。

『蜜蜂と遠雷』は国際ピアノコンクールの様子を書いた長編小説だ。四人の若いピアニストの葛藤や音楽への思いを描いている。

鮮やかな緑だけではないのが良い

物語の完成系だと感じる理由はやはり、成長や心情の変化というのが分かりやすく見えるからだ。『蜜蜂と遠雷』は語り手がどんどん変わり、主人公はこの人だ、と決められていない。
主要四人が語り手になることはもちろん、コンサートの関係者である審査員、メディア、ステージマネージャー、他の演奏者などの所謂脇役が語り手になることもある。それはみんなが主人公と捉えることもできる。それでもやはり一際目立つのは、かつて天才少女と言われた栄伝亜夜だろう。

栄伝亜夜の成長の描き方は素晴らしい。(上からだな…)ピアノの先生でもありマネージャーでもあった母の死をきっかけに表舞台から去った亜夜。グランドピアノを空っぽの「墓標」とまで思っていた亜夜が、本選演奏の前に自分の中から音楽が消えたわけではなかったと気づく。音楽が好きだと、ピアノを弾くことが楽しいと思う。母や風間塵の中に音楽があったわけではなく、ずっと今も昔も自分の中にあったんだと気づくシーンを読んだ時、「物語」が上手すぎると思った。

『蜜蜂と遠雷』はコンクールで、順位の付く大会だ。それなのに主要四人には共に出ている演奏者に対してのライバル心というのが薄い。一般人の私からするとそれは凄く違和感だった。なぜ「負けない」のような単語があまり出てこないのだろう。そう思っていたが、本物のプロフェッショナルたちは他者を蹴落とすことをしたいのではないのだろうと思った。

本当の音楽を、(あるかどうかは置いておいて)それを追い求めているのだろう。良い音楽がしたい、素敵な演奏を聞いてほしい、もっと言えば「音楽が好き」という感情だけで、辛い練習や苦しい状況を追いはねてきたのだろう。まさに、好きこそものの上手なれといった話なのだ。

実直で、音楽に対して真摯。全部どこまでも真摯だった。音楽が好きだと思ったことは誰しもあるのではないだろうか。別にピアノに限った話ではなく。吹奏楽やジャズ、ポップミュージックなど、世界は音楽にあふれている。それを連れ出すとはどういうことか、塵も亜夜も完全には分からずに終わるけれど、結局試行の繰り返しなのだと思う。

私の中での「音楽を連れ出す」の答えは、言語が違っても同じ瞬間を楽しむことのできる音楽で、皆が同じ景色を見ることだと思った。高島明石の「春と修羅」で頭の中に「あめゆじゅとてちてけんじゃ」というフレーズが浮かんだように、そういう言葉や景色、風景が皆の心に同時に浮かぶことが「音楽を連れ出す」の答えなのかなと感じた。

最後の解説を読んで、意外と恩田さんって茶目っ気のある方なのだなと思った。風間塵を次こそ落とすとか、直木賞の待ち会で電話が鳴らなかったら新年会に変えるとか、なんか可愛い人だなって。
でも、10年間の執筆だったり、何度もピアノコンクールに取材を重ねたり、連載を7年も続けたり、どんな精神力だよと驚いた。恩田さんこそ、小説を書くことや音楽が好きだったからこそ書き上げることができたのだろうなと思った解説だった。

読書の秋と音楽の秋を同時に楽しめた。なんなら映画『蜜蜂と遠雷』も見て、芸術の秋も堪能?充実した秋だった、と冬が来る頃には言えそう。
映画はもちろん原作を改変するところはあったが、映画と原作は別物と考えているのでどちらも好きな形になっていて良かった。映画館で見れば良かったという後悔だけが残ったけど。

ピアノ繋がりで久しぶりに『羊と鋼の森』も読みたくなった。

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