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『サンショウウオの四十九日』朝比奈秋

周りからは一人に見える。でも私のすぐ隣にいるのは別のわたし。不思議なことはなにもない。けれど姉妹は考える、隣のあなたは誰なのか? そして今これを考えているのは誰なのか──

同じ身体を生きる姉妹、その驚きに満ちた普通の人生を描く、芥川賞受賞作。

新潮社

もうひとつの芥川賞受賞作である『サンショウウオの四十九日』を読んだ。朝比奈さんの作品はデビュー作から全て身体に関わる話で、今回は結合双生児の姉妹が主人公になっている。医者兼作家の方は意外と多いが、朝比奈さんはその中でも「身体」についてより密接に、深く訴えているように感じる。

まずは視点について。冒頭に引用したあらすじにある通り、姉妹の一人称を「私」と「わたし」という漢字/ひらがな表記で区別している。一つの段落ごとに語り手が切り替わる、というような分かりやすいポイントはない。気づいたら杏から瞬に変わり、また瞬から杏に変わってゆく。
これは結合双生児という特徴を使った巧みな方法だと思う。人称の設定に矛盾のない感じがとても気持ち良い。二人の考えていることが交錯し、ぐるぐると人称が変わる感じは読者にとって、杏や瞬が普段どのような感覚で過ごしているかを体験させているかのようだった。

父の兄に当たる伯父の死によって、杏はパニック状態になる。過去に読んだ哲学書や、自分と似ている症状にある結合双生児たちの研究論文などが頭の中を駆け巡る。その内容は同じ体に住んでいる瞬にも伝わる。ここで二人は意識について考えることになる。

「意識はすべての臓器から独立している。」と言う通り、二人の考えは互いに伝わったとしても、混ざることはない。体は二人で一つだとしても、意識は一人一つずつ持っている。それが明確に分かるのはラストシーンだ。

⚠️ラストシーン関わるネタバレがあります。ご注意ください。


伯父の死から四十九日の夜、瞬は「意識の死」を迎えることになる。朦朧とする中で杏の読んでいる本の内容が意識へと伝わってくる。

……あなたがたが真に恐れているのは意識の死である……肉体の死は意識の死とはなんの関係もない……むしろ、意識の死は生きながらにして起こる……(中略)……生まれながらにして死を体験することができれば、あなたは生と死の狭間に入る

p.110

体を動かそうとしても、上手くいかない。そんな状況に陥った瞬は死んでいることを実感する。しかし体は動いていた、それは杏の体でまた自分の体でもある。引用にある通り、瞬はその後「生と死の狭間」に入り、亡き祖母と会話をする。瞬が意識とは何だろうと疑ったとき、人称は杏へと切り替わる。

杏のターンになったとき、夢のような記憶のような映像が流れ出す。それは杏が幼稚園児だった頃の記憶で、このときまだ瞬が体にいることが分かっていなかった。映像の最後にはザリガニが登場する。川の中にザリガニがいるように、杏の体の中にも瞬がいることを自覚する。そこで映像は途切れ、現在に戻る。

現在に戻ったとき、瞬は生まれる。つまり、「意識の死」から戻ってきた/または新しく生まれたことになる。これはわたしの考えだが、まさに二人は学生時代に見たサンショウウオのような相補相克の関係で、杏の見ていた映像のおかげで瞬は完全な死に至らずに済んだのではないだろうか。結合双生児であったから、瞬を取り戻せた。

そして瞬が生まれたとき、杏は扁桃腺の痛みで苦しむことになる。それを意識を取り戻した瞬が、次は杏の身体を救うのだ。


伯父の死から始まる二人の「意識」の話。結合双生児、胎児内胎児と普段は聞き慣れない言葉が登場するものの読みづらい!とは一度もならなかった。知らなかった世界でも、朝比奈さんはいつもぐんぐん読ませる。説明が多くなりすぎるとつまらなくなるし、なさすぎると伝えたいことを伝えきれなくなる。そこのバランスがとても上手いのが朝比奈さんだと思う。

しかし、わたしは初読の段階で謎のまま読み終えた箇所がいくつかある。その後読み込んで、ラストシーンの杏の記憶の映像については自分なりの結論が出せたのだが、序盤にある血の風呂は解決していない。まだもやもやとしたものが自分の中にはある。もちろん全てのことに答えがあるとは思わないけれど、やはり気になる。
面白い作品と思うと同時に、想像力が試される作品だとも思う。だから想像力を働かせるのが苦手な読者にはつまらない作品と思われるかもしれない。

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