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21歳になるということ

 21歳の誕生日を迎えた今日、この文章を書く。誕生日があまり歓迎すべきものではないように感じはじめたのは20歳になるころだった。10代のうちにしか学べないことがあるだろうと考えていたから、家族のことで悩み続けて日常の楽しさに目を向けず、普通の人が普通に学べている何か大切なことを自分は見落としたまま20歳になってしまったのではないかという考えが僕を苦しめた。いまだに遊びに人を誘うことすらなかなかできない、人と付き合ったことすらない、いまだに家族の過去のことで悩んでいる……。自分には何かが欠けていてもう一生取り戻せない。そう考えていた。
 19歳のころ『グレート・ギャツビー』が好きでよく読んでいた。それは下流階級からのしあがったギャツビーが過去を取り戻そうと奮闘する物語だったから、何かしら自分と共鳴するものがあった。しかしギャツビーは最終的に破滅したし、ほかに死んだ登場人物もみんな下流階級出身だったし、責任を他者に押しつけて逃げ生き残ったのは上流階級だったから、自分の人生に対して何かを示唆されているような気分になった。
 今でもこの本がいちばん好きで、特に最後の一節が僕のいちばん好きなことばだ。
So we beat on, boats against the current, borne back ceaselessly into the past.(だからこそ我々は、前へ前へと進み続けるのだ。流れに立ち向かうボートのように、絶え間なく過去へと押し戻されながらも。)
 僕もこのことばを胸に、川の流れに抗いながらオールを漕いでいた。しかし、オールを漕ぐのに必死になり、下流に砂金が流されていく様子を横目に見ながら何もできず苦しい状態だった。流されていった砂金を取り戻すことはもうできないだろうと勘づいていながら、どうしてもその事実を受け入れることは難しかった。

 21歳になった今日の朝、起床したとき、そうした10代の残滓がどこかへ流れていってしまったような感じがした。10代の残滓。その痕跡はたしかに心の中に残っている。書かざるを得ないことばよりも、謳わざるを得ない愛の方が素敵だった。もしお金があって、家族みんなが仲のいい家庭に生まれていたら、自分は今頃どんな人生をあゆみ、どんな人間になっていただろう。その考えは、なかなか消し去ることができないことはたしかで、しかし、それが今の自分が何もかもうまくいかない理由だと断言するには1歳ばかり歳をとりすぎていた。

 今の自分がうまくいっていない理由は「自分に自信のなさすぎること」にあるのだと思う。僕はある中学校でバイトをしていてそこではとても評判がいい。先生みんなに僕の名前は知れ渡っているし、先日は社員の方からも「先生がみんなあなたのことをすごいと言ってるよ」と言われた。そうして100%の信頼を置かれたとき、「自分はそんなに優れた人間ではないし、みんないつか失望するだろう」と思った。
 自信がなさすぎることは結果的に自分を破滅に追いやるのだと薄々気づいている。無意識的に自分自身で失敗する方向へと選択してしまうようになる気がする。つまり、今の自分がうまくいかないのは家庭環境の悪さやお金のなさやDVをした父親などでは決して説明できず、「自信のなさがゆえ自分自身でそうなるように選択しているから」だといえる。10代の残滓が川の下流へ流れ、20代という上流がほの見えてきた21歳の誕生日。砂金はもう取り戻せないかもしれないけれど、そうした人生と対峙してきた自分に自信をもち、これ以上の砂金を取り逃さないように今の日常に焦点を当てて生きていくほかない。上流はもっと流れが速いかもしれないし、また砂金は流れていってしまうかもしれない。しかしあとから取り損ねた砂金を一つひとつ数えて後悔する人生よりも、手元に残った砂金を愛でる人生にしたい。まずは自分に自信をもつこと。よろしくお願いします、21歳。


p.s: 神楽坂で僕のために誕生日パーティーを開いてくれたよき仏教研究者に感謝。


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