元塾講師が現代文の評論(+勉強法)を語ります!
こんにちは、元塾講師の人です。前回の投稿で、私の塾講師時代の経歴を簡単に述べさせていただきました。
ざっくりおさらいすると、高校生に対して集団授業を行う大学受験部では国語(主に古文で、時々現代文)を教えていました。
また現役時代も文系で、何本もの国語の問題を解いてきました。
ただ実は、現役時代一番苦手だったのが国語、特に現代文でした。評論が読めない、小説が読めない、非常に苦戦しました。しかしだからこそ国語に人一倍取り組み、今でも思い入れのある科目です。
そして社会学を大学時代に学んだ結果、この大学受験における国語、特に現代文の評論というものの面白さと大切さがわかりました。
今回は現役時代から塾講師時代までに感じた、大学受験の現代文についてあれこれ語っていこうと思います。
1.受験現代文に対するイメージ
高校生にとって、小説を読むのは人によって日常的なことです。そのため、小説と評論を比べたときに、「評論は嫌いだけど小説は好き」という声をよく聞きます(現代文には随筆というジャンルもありますが、あまり出ないので割愛します)。
そのため受験勉強を始めたての高校生に「評論と小説、入試で出る割合はどれくらいでしょう?」と尋ね、答えとして「評論9割、小説1割」と伝えると、びっくりした様子を見せてくれるので講師としても気持ちがよかったです(笑)。
ちなみに、評論が好きな生徒もごく一部にいます。評論は筆者の主張や論理展開さえつかめれば、選択問題にしろ記述問題にしろ、主張を精査して組み合わせるパズルのような作業になるため、楽しいし楽です。
ただ、評論が好きな生徒はこの作業への楽しさではなく、文章として面白さを感じていることが多かったです。社会学的な考えに通じることも多いので、彼ら彼女らは将来有望です。
小説も結局は本文に書かれていることしかヒントにならないため作業はあまり変わらないのですが、論理展開がわかりにくいのでかえって苦手とする生徒も多いです。
また、「日本人なのに国語が苦手(泣)」と嘆く生徒も多いですが、これには誤解が含まれています。
国語、特に生徒が難しいと思う現代文は、日本語ではありません!
正確にいうと(言わないと新たな100%誤解が生まれます)、
現代文は(普段接している)日本語ではありません!
現代文の問題の大多数を占める評論は論理展開が行われていますが、高校生が日常会話で論理構造を意識することはそうそうありません。また評論には、会話ではなかなか使わない、難しい日本語もよく使われています。
ですから日本人で国語が苦手というのは、おかしいことではないのです。
2.現代文は論理的思考のトレーニングになる
こういう話を聞いたことがある人も多いのではないでしょうか。
「大学入試の国語の問題を著者が解いたら、全問正解できなかった」
そしてこの噂を引用し、「そんな国語の問題に意味はあるのか?」と疑問視する人が時々います。
しかし現代文の授業や問題の意図は、筆者の主張を理解することではありません。
先ほど少し述べた、評論の解き方と矛盾するように思えますが、違います。
評論の問題を解く上で、筆者の主張は「必要」なだけであり、「目的」ではありません。
では現代文の目的は何なのでしょうか?私が思うに、それは筆者の主張を理解することを利用して「読解力」を身に付けることです。また記述式の問題を出してくる大学は、「文章構成力」も重視しているということでしょう。
ただし、「読解力」が身に付けば「文章構成力」も身につきます。論理構造を理解することができれば、文章を構成することも出来るからです。
そして、「読解力」を鍛えることで評論の特徴を知ることができ、評論の特徴を知ることで、なお「読解力」を高めることができます。
評論の出典は専門書であることがほとんどなので、現代文で高められた「読解力」と、評論の特徴を知っておくことで、大学に入ったとき本を読みやすくなります。
評論の特徴(要するに専門書の特徴)は、「世間に知られていない新しいことを、筆者が説明していく」ということです。では、新しいことを説明するにはどうすればいいのでしょうか。
評論では、最初と最後の段落が筆者の主張になっており、各段落の最初と最後の文も主張になっていることが多いです。
これはいわゆる、「結論を最初に持ってくる」ということ(加えて、結論なので文字通り結末にも置くということ)です。大事なことは印象に残りやすい最初と最後に述べるということを知るのも大切です。
そして主張だけを述べてもわかりづらい、抽象的すぎるので、文章の中間の段落と、段落の中間は具体例(いわば「たとえ」)を用います。
また、新しいことを主張するということは、必ず古いことが対比されます。古いこととは、従来の常識や価値観などです。
したがって、「しかし」「だが」といった逆接の後には、新しいこと、つまりは筆者の主張が来ることが多いです。
こうした評論の特徴を知っておけば文章を読む際に、筆者の主張を追いやすくなります。筆者の主張をそれよりも重要ではない部分と取捨選択できるようになれば、筆者の論理展開がわかるようになります。論理展開は文章によって変わってくるので、あとは一つでも多くの文章を読むことで、論理的思考を鍛えていきます。
現代文の問題が解けるようになるということは、論理展開を読めるようになるということなのです。これが「目的」です。
3.現代文の勉強法
せっかく塾で現代文を教えていたので、ここで勉強法を少し紹介したいと思います。これが絶対の方法ではありません。あくまで私自身が現役時代にしていた、そして塾でも教えていたものになります。
そもそも現代文の勉強法と言われても思いつかないという人も多いのでしょうか。
肝になるのは、「一つでも多くの問題を解くこと」です。
英語の文法や漢字、社会の問題と違って現代文の読解は暗記事項ではありません。先ほど述べたように論理展開は文章によって変わるので、論理的思考を鍛える(=現代文の問題を解けるようになる)ためには、多くの論理展開に触れることしかありません。
そして一つの問題は、解説をよんで理解したら、もう解かなくて大丈夫です。それよりも新しい問題に取り組むことです。
また、国語に携わっていない人に現代文の勉強法を聞くと、多くの人が「本を読め!」と答えます。
しかし、一冊の本を読み切るには時間がかかる上、現代文が苦手な人はそもそも本を読むのが苦痛です(私も昔はそうでしたし、今でも本をずっと読んでいると疲れます)。
最初に述べたように、現代文は普段接している日本語ではありません。よって、本を読んで現代文の勉強をするというのは、洋書を読んで英語長文の勉強をするくらい、労多くて実りのないものです。
現代文の勉強=本を読むことと同じくらい、高校生が陥りがちなもう一つの罠が、「塾で現代文の授業は取らなくてもいい」という誤った認識です。
そもそも現代文は勉強法がわからないうえ、学校のテストでも全く勉強しない、もしくは授業のノートを読み返して、暗記をすることで簡単に点が取れてしまう人が多いのです。そのため、英語や数学、古文と比べて、現代文は軽視されがちです。
しかし、入試の現代文は初見の問題な上、論理展開は普段接する日本語とは違います。それなのに、どうして現代文を軽視することができるでしょうか(反語=筆者の主張になりやすいですよ)。
塾で現代文の問題を毎週解き、講師から解説してもらい、耳で聞いて論理構造を理解し、訓練する。これが入試現代文には必要なことです。
また塾で現代文を勉強すると、こんな良いこともあります。評論は政治や自然科学、宗教、国際社会など、日常社会のもろもろがテーマになっているため、講師は解説する際、このテーマに即した雑談を入れることが多いです。他の科目の雑談と異なり、単なる息抜きに止まらない、背景知識の培養という効果もあります。宗教や国際社会は高校生に馴染みがないテーマのため、講師の雑談によって馴染むことが、そのまま勉強になるのです。
自分と塾で一つでも多くの問題を解くことが、私の考える現代文の勉強法です。
まとめ
このように、現代文は日本語を用いているにもかかわらず、極めて誤解の多い分野なのです。その誤解のほとんどは高校生にとっては罠になるもので、そのままでは現代文をきちんと理解しないまま、入試に突入してしまいます。
また現代文を大学入試のためのものとして考えてしまうのもよくありません。評論は専門書からの出典がほとんどなので、現代文を解けるようになることは、専門書を読めるようになるということです。専門書には、社会を生きていく上で知っておくべき事柄が書かれていることが多く、自分の関心のあることを研究する上でも役に立ちます。
現代文は入試科目ではなく、人生を生きる基礎なんだと思います。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?