ポリコレ・表現の自由・社会的公正

ポリティカルコレクトネス、略してポリコレは本来、政治的社会的に公正であることによって、不公平や不平等の是正、少数派も尊重することなどが目的だったはずですが、利用や賛成する方も否定・反対する方も使い方が変わってきたように思えます。

自分の主義主張を実現するために、ポリコレの概念や手法を用いて押し通したり、あるいはその逆で自分の主義主張への通常の批判・非難に対してポリコレの悪用だと逆批判したりしているようなケースが見受けられます。

現実社会の表現規制についても、私個人として理解出来るところもあれば理解に苦しむようなものもあります。

創作物でも当然ながら対象になりますが、これから新しく制作されるものについてはポリコレが適用されるのは理解出来ます。ただ、過去のもの、特に制作者が亡くなっているものについては注意書きを載せることでそのまま認めてもいいのではないかと思います。

例えばドラえもんで言えば、ジャイアンがバットでのび太を殴ったり、しずかちゃんがお風呂に入っているシーンとか、宿題を忘れたのび太が廊下に立たされたりするようなのは、過去に無かったと仮定して、今新しく描いたとしたら非難されるのは間違いありません。

ただ、もう何十年も前に描かれた創作物をポリコレ的には抹殺するのは適切とは思えません。

表現の自由も社会的な公正中立も大事です。その両方を放棄しているような独裁的な国家もありますが、両方を尊重している国家であればどこかでその折り合いを付けねばなりません。

その折り合いの目盛りが一直線上にあるとは限りませんが右の方と左の方で人によっても政府・国家によっても境目が異なります。

しかし、この表現の自由と社会的公正はどちらも近代国家の成立と進展を通じて市民が獲得してきたものです。どちらも前近代のアンシャンレジームにおいてはほぼ全ての国や地域で、支配権力によって抑圧されてきたものです。

二者が協調して戦う相手を消滅させると、残った二者で戦うことになるのは世の理ですが、ポリコレの内部にある少数派の表現の自由と、少数派の立場の尊重という対立は解消できるのでしょうか。単に一方が打ち負かしてしまったら解消とは言えませんので、その対立を止揚・昇華できるでしょうか?

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