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ニュースバリューは誰が決めるか?

メディアではこのニュース、この記事は載せてそっちは載せない、書かないという判断が常に行われています。記事を書くネタが全く無いということもあるでしょうけれど、世の中に事件は常に起きているわけで、どの事件やニュースが掲載に値するか、ということは取材前や取材後、記事作成後に取捨選択することになります。

ニュースにするかどうか、ニュースに値するかどうかを決めて選ぶわけですが、では、この話はニュースとしての価値がある、あるいはないということは誰が決めるものでしょうか?

昔、インターネットが普及していなかった頃は間違いなく、ニュースを提供する報道関係者(いわゆるデスクなど)が決めることが出来ました。例えその基準や判定がおかしかったとしても、異議を唱えることが出来たのは社内あるいは同業他社だけでした。一般人にはそれ以外の「載らなかった」ニュースの存在は分かりません。

表に出た後、他社の選択との比較で載せるべきだった、という指摘は出来ますが、記者クラブで情報が共有される以上、特ダネ・スクープとかで無い限りは大差ないでしょう。

結果的にそのニュースに報道される価値があったかということは、報道された後に、どれだけの反響・売れ行き・視聴率があったかということで事後的に決められるということになります。

まず、どれくらいそのニュースを見た人がいるかという点については、旧来のメディアではリアルタイムでは分かりません。

テレビニュースでは視聴率が判明するのは翌朝です。金土日の番組は月曜に分かります。新聞であれば発行部数以外は分かりません。記事を書いても本当にその記事がどれくらいの人に読まれたかは全く把握できません。新聞購読者が全ての記事を読んでいるわけではないからです。反響の大小によって間接的には分かるでしょうけれど。

インターネットに出ているニュースであればリアルタイムに近い形でニュースの需要を把握できます。動画のニュース、例えばAbemaTVのニュースであれば同時接続数がリアルタイムで表示されています。文字での配信にしても、そのメディアの閲覧数はGoogleAnalyticsなど解析ツールを使えばほぼリアルタイムで確認することが可能です。

ニュースを書く側・出す側は反応を見て、同じニュースの続報や、新規でも似たようなニュースを出すことがインセンティブとして発生します。これがずっと続いてきたわけですが、結局出さなかったニュースに対する需要があったかどうかは判断が付きません。

見る側が見たいと思っているニュースが報道されるとは限らないわけです。大半の事件・社会問題に関してはどこのメディアも等しく報道しているでしょうし、重要性もそう変わらないのかも知れませんが、一部、もっと大きく取り上げられてもおかしくないようなものでもあまり報道されてない、と個人的に思うこともあります。

積水ハウスの地面師事件や、明浄学院の土地・資金流用事件、最近なら東京ミネルヴァ法律事務所破綻などの数十億円の詐取など、いずれも連日トップニュースになってもおかしくなレベルの話だと思っていたのですが、そんなことにはなっていません。時々はありましたが。

選挙とか災害とか、それこそコロナウイルスとか誰が考えてもトップニュースになるものがあるときはいいんですけれど、これらのニュースは世間的、少なくともマスコミ的には大した問題ではないんですかね。

インターネットの普及によって、もはやメディア側で付けられたニュースバリューのランキングはあまり意味ない時代になったと思うのですが。

見たいと思ったニュースがマスメディアで見られなくても、いろいろな方法で目にする機会は増えました。

多分、こういった問題は週刊誌やあるいは数年後のノンフィクション単行本で読めるわけですが、メディア側での役割分担が無意識的あるいは暗黙的になされているのかも知れません。

そう言えば、noteでかつてマスメディアで取り上げられなかったニュースが脚光を浴びたことがありました。

いわゆる「つけびの村」です。私も話題になってからKindleで買って読みました。

つけびの村
――噂が5人を殺したのか?
https://www.shobunsha.co.jp/?p=5474

noteに書いたことでSNSで注目され、出版に至ったというのは今の時代らしい動きなのかも知れません。今後もこのような動きは増えていくんでしょうね。

全てのニュースを特定のマスメディアが取り上げるのは無理な話です。とは言っても、マスコミにとって報道しやすいニュース・報道したいニュースだけを報道していたら、いずれは読む人・見る人とマスメディアの関係性が逆転して、見向きもされなくなる時代が来るかも知れません。

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