非合理的な人間と合理的な動植物というイメージ

 個人にしろ集団にしろ、常に誰もが必ず合理的な行動を取る、と思っている人はまずいないでしょう。「合理的」という言葉の定義にもよるのかもしれませんが、人間はよく失敗します。間違った行動を取ります。その後に悔やんだり、失敗を取り戻そうとして頑張ったり、さらに失敗を重ねたり・・・、その営みがいわゆる人生なのでしょうが、人生論を語るつもりはありません。

 人間が合理的な行動・選択を必ずしも取るとは限らない一方で、人間以外の動植物が取った行動・選択は必ず何らかの理由があってのことだと考えられがちです。何故でしょうか?
 人間以外の動植物には、人間のように余計なことを考える能力や余裕がないから、という理屈が考えられますが、果たして本当にそうでしょうか? 人間はもちろん動物の脳の構造もまだ完全に解き明かされたわけではありませんし、はっきりした脳があるわけではない動物、昆虫やあるいは植物のような生物が取った選択肢にどれほどの理由が存在しているのかを人間側が理解出来るようになるまでには、まだまだ相当の時間が必要なはずです。

(以下の内容に関してはひょっとしたら大きな事実誤認があるかも知れません)

 例えばサル山のニホンザルたちは野生では取らない行動を取るそうですが、それは飼育している人間が合理的な行動を(意識的もしくは無意識的に)教えた結果、野生で取っていた行動よりもサル山での行動の方が合理的だと判断して、そうのように振る舞う習慣が群れレベルで形成されたので派内でしょうか。

 野生で棲息する動物の場合ですと立証するのは難しいかも知れませんが、ペット化もしくは家畜化された動物とその野生種との行動を比較するともっと分かりやすいかも知れませんし、研究者の方々がもうすでに調べているのかも知れません。

 専門的な知識が全く無い人間があれこれ言うのは的外れかも知れませんが、常に考えておきたいのは、人間が非合理的な行動を取ることがあるということは、おそらく全ての人間が確信していることなのに、人間以外の動植物が非合理的な行動・選択をするということはあまり考えないのは本当に正しいのか、ということです。そしてその考えを進めると、そもそも「野生のまま、ありのままという在り方は本当に本質的なものなのか」という考え方が出てきます。一歩間違えれば、全ての自然は知能が高い人間が支配して改変すべきだ、という無茶な思想につながりかねませんが、自然が、あるいはありのままがただそれだけで無条件に尊いというのも同じ無茶な思想の裏返しに過ぎません。この世の自然法則を理解し支配しているのは人間のみだから、人間こそが自然を大事にしないといけないのだ、という理屈です。

 人間が生きている以上、自然はある程度破壊せざるを得ません。程度の問題ですが、動物も植物も自然を破壊しながら生きています。特定の動物が何らかの環境要因により増えすぎればその餌になる生物は急減しますし、狭い地域に特定の植物が大量にはびこってしまうケースもあるはずですが、それは自然なのでしょうか。人間の営為だけが反自然というのはそれはそれで無理があるのではないかと思います。

 例えば、日本の里山などで住民が管理して森林をそのまま維持し続けるのは、自然に優しい行為なのでしょうか。それとも自然を破壊する行為なのでしょうか。森林を本当の自然のまま、ありのままに放置すれば、極相に移行します。そして極相林だらけですと人間にとってはメリットのそれほど多くない森になってしまいます。

 全ての人間の行為を肯定するつもりはありませんが、人間が自然に関わることと人間以外の動植物が自然に関わることをあまりにも明確に差別してしまうと、そもそも人間の存在自体を否定せざるを得なくなるのではないでしょうか。自然に対する無限の賞賛は人間否定になりかねません。そもそも「自然とは何か」という定義及び「自然はどこまで正しいのか」という判断が共通化されていない無知が人類には存在するのではないでしょうか。

 

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