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リベラルによる言論弾圧という悪夢

今、アメリカの情勢について発言する人は、自分の発言が黒人差別・人種差別と見なされないかどうかよく考えた上で発言しないと、色んな人達からナチス・ヒトラー・人種差別主義者呼ばわりされかねない状況となっています。

もちろん、黒人差別も人種差別も肯定する理由などどこにもない、憎むべき思想ではありますが、それに該当するかどうかについては極端な発言以外は微妙なところがどこかにあるはずです。その微妙な線引きが一気に移動して、これまでだったら差別と見なされないような内容でも即差別と見なされて謝罪を求められる事態となりました。

過去数百年間における欧米諸国による黒人差別・黒人奴隷の問題からいうと当然だ、という考えも当然あり得ますが、その考え以外、全ては人種差別だと決めつけてしまうというのはもし将来反動が起きたときにどうなってしまうのかと不安に思ってしまいます。

ここまで書いてきた数百文字ですら、もしかしたら人種差別扱いされるかも知れません。誰もがビクビクしながら発言する世の中はまともと言えるのでしょうか。

ジョージオーウェルが書いた「1984」に存在していたディストピアでは、全体主義国家において言論・思想の自由が存在しない状況をイマジネーションとリアリティを織り交ぜて表現されていましたが、まさかこの21世紀の民主主義国家においてリベラルによる言論弾圧が行われるとは思ってもみませんでした。

ただ、冷静に考えてみると、先述の「1984」でも社会主義・共産主義から全体主義・独裁主義国家が生まれていますので、もともと左の思想と言論弾圧は親和性が高いものです。ソ連や中国、あるいはクメールルージュを思えば分かりやすいでしょう。

もちろん、極右においても言論や思想は弾圧されます。戦前・戦時中の日本もそうでしたし、それこそ本物のナチスドイツでも同じです。極右も極左も行き着く先は国家による国民の絶対的な管理です。戦前の日本で国家社会主義が極右に広がっていたことや、ナチスの名前そのものにも「国家社会主義と入っています。社会主義が究極的には思想・言論の自由を奪ってしまう、というのはある意味当然のことです。

右も左も行き過ぎれば自由は存在しなくなります。まだまだ今の社会はディストピアにまではなっていませんが、中道がもはや存在感を示せていない今、向かっている先はその反対である、右か左の極地でしょう。

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