多文化主義という矛盾した熟語からみる「カルト化するリベラル」と、「妄想する保守」

自分なりの文化や多文化主義について思うままに。

文化は「場所」と「人」によって出来上がるものであり、その場所に別の人が文化を持ち込んだら、別の文化を取り入れた新しい文化が出来ます。多文化という一つの「場所」に複数の「文化」が存在するのは幻想と言えます。多文化主義が行き過ぎると、それに反発が生まれます。行き過ぎた多文化主義を是正しないと、狂った民族主義者を再生産し続けることになります。

そもそも西洋のリベラルが多文化主義を堅持するのは、かつて、そして今も西洋以外の地域に西洋文化を押し付けてきたという自覚と自戒の念があるからではないでしょうか。アジア人としては、だったら押し付けなければいいと思いますが、そうはいきません。西洋文化が広がらなければ西洋にとって経済的な停滞を招きますし、そもそも自由・平等・博愛・あるいは人権など人類普遍の価値観だと信じて止まない西洋思想を他地域に広げることこそが自分たちの使命だとも思っているので、押し付けないわけがありません。その身代わりとして自分たち西洋においても他地域の文化を受け入れますよ、自分たちは公平平等ですよ、というアピールも含んでいます。

もちろん、そういった思想が悪いとは言いませんし、19世紀にアジアでいち早く近代化を成し遂げた日本にとっては親和性の高い概念だと思います。ただその思想を突き詰めると、押し付ける一方で受け入れないといけないために、リベラルから移民を拒否するという考えが無くなってしまいました。また、20世紀中頃からは労働者不足のために積極的に移民を受け入れてきたことが経済発展のために移民は良いのだという考えも生みます。

そこで問題になってくるのが、移民が何も真っ白な状態でやってくる人間ではないことです。生まれ育ったバックグラウンドに基づいた文化、言語、習慣、風習を当然ながら持ち込みます。近代以前であれば人権などを無視(そもそも人権の概念がありません)して強制的に同化させることも出来ましたが、近代というか現代においてはそんなことも出来ず、大量にやってきた移民がまとまって住む地域では移住先の欧米の文化とは異なる文化が維持されるコミュニティが出来上がってしまいました。

そこで多文化主義という考えが持ち込まれて、一つの大きな地域(たいていは国家)の中に複数の文化が存在してもいい、むしろ存在すべきであるという流れが出来ます。冷戦崩壊後のグローバル化によってその流れはますます強くなり、反対する人間が保守的どころか人種差別主義者、いわばナチズム扱いされることで反対出来なくなり、現地文化に同化しない文化を尊重するようになりました。

結果として、今のヨーロッパのような、多くの国で移民に関する問題が発生しました。これを問題視するのは人種差別だ、という意見もありますが、そういう意見こそ既成政党を見限って極右政党に有権者を追いやってしまっています。

事実上、リベラルは自分たちの思想を神聖化して、リベラルな意見に反論を述べる人間を悪魔の手先のように否定してしまいます。多様性を認めることを聖書の一節かのように扱うことでカルト化してしまったのが現状です。

その一方で保守は保守で時代の変化を否定し、グローバル化による社会的経済的な恩恵を全く無視しています。グローバル化否定とリベラルな概念をひっくり返せば、過去の素晴らしい時代が蘇るという妄想に妄想を重ねて、やはりそれを否定する意見に耳を傾けず、自らの妄想に浸ります。

そして保守もリベラルもお互いに相手の批判ではなく否定しか行いません。誤った保守が大量の自称リベラルを生み、誤ったリベラルが大量の自称保守を生むというクソみたいな悪循環になってしまっています。

そういうときにこそ中道が影響力を及ぼすべきですが、中道主義が各国で絶滅しそうなんですよね。リベラルや保守が掲げる自称「中道」はあるんですが。

ちなみに、移民の文化がどこの国でも受け入れられず、多文化主義が成り立たないとは思いません。ある程度近似した文化同士であれば同化しなくても両立や併存は出来ると思います。どれくらい近似していれば可能かというと、サミュエル・ハンチントンの「文明の衝突」で取り上げられた、世界の文明の区分で同一の文明内での移動であれば大丈夫な気がします。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E6%98%8E%E3%81%AE%E8%A1%9D%E7%AA%81

その文明内での移動であれば、移民集団がそれほど大きな軋轢は生まないのではないかと思います。

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