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短編小説「永え」

拝啓
藤井翔太郎様
貴方が好いたお庭の金木犀は、今年もまた、甘い匂いを風にのせるようになりました。
久方ぶりにお手紙というものを書かせて頂いておりますから、もし、私がおかしなことばを使っておりましたら、あの頃のように、笑って、私をまたからかってくださいね。

翔太郎様。お久しぶりでございます。
私たちがまだ若い頃、貴方を心から愛していた、沙耶でございます。
いえ、貴方は、私のことなどもう、とうに忘れてしまったのでしょうか。
というのも、私たちが最後にお会いしましたのは、もう、十年前のことになりますから。
貴方はあの時、もう会うのは最後にしよう、家柄の問題だ、僕のことはさっぱり諦めてくれ、と、そう仰いながら、別れ際渡した手紙には、きっと迎えに行く、と、達筆な貴方の字で、そう書かれておりましのに、結局1度も、そのお顔をみせぬまま、今日まで日を重ねてしまいました。
この10年、あなたの事を思い出さない日などありませんでした。それどころか、毎秒と言っても良いほどたくさん、涅色の蓬髪にいつも暗い色の袴を着ていた貴方の、垂れ目を細くうずめた微笑が目に浮かんでは心温まっておりました。私は、今年でもう二十八になります。あの頃と同じあばら家にお酒のお店を開いて、お嫁にも行かずひとりで細々生きてておりました。全部、貴方を想ってのことなのです。
いっぽうの貴方は、今、一体どこで、何をしているのですか。
貴方のことだから、もうさっさと遠い所へ行っていしまったのでしょうか。それとも、案外、私のすぐ近くにいらっしゃるの?

まだ前髪を染め上げてすぐの頃、あの広いお庭の金木犀の木に寄りかかり、ご本を読んでいた私が、挟もうとした栞を風に飛ばしてしまって、それを捕まえて届けてくださったのが貴方でしたね。お家柄、仲たがいだった私のお家に堂々とお邪魔して、これを君に、なんて、貴方に似合わぬキザな事を仰って、綺麗な押し花の入った新しい栞をくださいました。それまで私が使っていたぼろぼろの紙切れは、そのとき、貴方がお預かりになったのですが、あれは、もう捨ててしまったのでしょうね。
それから、箱入り娘だった私を、お外の世界に連れ出してくれたのも、私に海を見せてくださったのも、恋を教えてくれたのも、貴方でした。
いつもは、私を目をみてはそっと微笑む程度なのに、ときどき、心の底から君を好きだなんて、頬を赤く染めながら言うものだから、なんだかこっちまで恥ずかしくなってしまって、しばらく黙り込んでから、2人揃って吹き出すなんてこともありましたね。
そんなふうに、貴方も私をじゅうぶん好いていてくださったようで、勿論、私も、貴方のことを心から想っておりましたから、名家であったお家を出て、貴方とふたりで生きていく決心などがついたという訳なのです。
私たち、お金なんてありませんでしたから、東京の隅のちいさなあばら家を借りて、そこで暮らそうと決めた矢先、貴方のお母様に見つかって、お互いを諦めた振りをしながらも、また会う約束を、あの日したのですね。
そうして私たちはお別れをし、とうとう一人の子供をみごもることもなく、はなればなれになってましいました。

何も疑わずに待っておりました。けれど、お別れの日から5年経った頃、だんだん、貴方に捨てられた気がしてならない気持ちになってしまいました。
本当は、他に女があって、その人と、とっくに逃げてしまっていて、私のことなど、もう、忘れてしまったのか、それとも、最初から、私をすきだと仰ったのは、全部、嘘だったのか、なんて考えては、夜中にひとり泣いておりました。
私には、本当に、貴方を想わない日など、すこしもなかったのです。

貴方の病死を知ったのは、ひと月程前でした。
お手紙が届いたのです。その、亡くなった筈の貴方から。
そこには、すこし震えた達筆で、自分は本当は重い病を患っていて、もうすぐ死んでしまうから、自分のことは忘れて、どうか幸せになって欲しい、私を心の底から愛している、と、だいたいこんなことを書かれていましたね。
今際の際の貴方が書いたそのお手紙が今になって届いたのは、貴方のお母様が反対したようで、それでも、お家の方にだまって私の元へ届けてくださった女中さんには、この場を借りて感謝させていただきます。
けれども私は、こんな手紙、読みたくありませんでしたわ。私はただ、貴方が迎えに来てくださるのを、それだけを心待ちにして生きてきたのです。もし、貴方がもうすぐ死んでしまうと知っていれば、最後まで貴方に寄り添い、しまいには、黄泉の国までご一緒させていただきたたかった。
私には、もう、貴方の隣にいることだけが、幸福だったのに。
貴方だけなのです。貴方だけを愛していましたし、それは、今も変わらないのです。
貴方を忘れて、なんて、私に出来る筈がないと、本当は貴方も分かっておられたのではないですか?分かっていたから、お家を理由に私を突き放して、また会えるなんて偽の希望を抱かせて、私をまんまと騙しこんで、お別れを言ったのではありませんか?

私は、貴方とお会いできた筈の最期の時間を、何も知らずにひとりで過ごしてしまったあの日々が、悔しくてなく、涙を流し流し、心も、体も枯れきってしまいました。
貴方と同じ墓に入れるように、書き置きをいたしましたので、少なくともこの身体は、永遠に、貴方の傍に居られます。
貴方は今、どこにいらっしゃるの?
貴方自身は、貴方の魂は今、どこをさまよっておいでなの?
ふたり、黄泉の国で暮らしましょう。
会いに、行きますから。貴方がしてくださらなかったかったこと。
嘘じゃありませんわ。
私、約束は、必ず守ります。
今、そちらに向かいます。


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