見出し画像

短編小説「冬ごもり」

「思い出せない。どうしても、思い出せないんだ。」
そう言って彼は突然泣き出した。
冬の寒さが骨を突く朝。だらだらと汗を流し半ばパニックを起こした様子で僕に縋る。
「思い出せないって、何がさ。」
「夏だ。夏を思い出せない。」
うなじを焼く太陽のあつさも、じりじり煩い蝉の声も、冷たい水に触れる心地良さも、寂しかった夏夜の匂いも。言葉には出来るのに、彼の感覚はそれを思い出すことが出来ないらしい。

僕らの国の冬は何処よりも酷な寒さであった。
その為、冬を目一杯感じ季節を味わうのは、秋から冬にかけての浅い時期のみとする。冬が深まれば皆家に篭もり、夏を恋しみながら冬を過ごす。
感覚的に夏を思い出しながら、じっと春を待つのだ。
夏を思い出せない人間が、果たしてどこまで寒さに耐えられるというのか。
「なあ、レオ。今まで、僕みたいに夏を忘れた奴はいたかい?」
「少なくとも僕は聞いたことがない。」
「ああ、では、僕はきっと、寒さに殺されてしまう!」
彼は目をたくさんに開き眉をひそめて、自分の身体を抱きしめながらがたがたと震え上がった。
「落ち着け、ヴィン。今までに君のような奴が居ないということは、君は寒さに殺されてしまうかもしれないが、殺されないかもしれないじゃないか。きっと大丈夫だよ。」
「駄目だ!ほら触ってみろ、僕の手を。こんなに冷たい。どんどん、体温が下がっている気がするんだ。」
「ストーブで温まろう。きっと直ぐに火照ってしまうよ。」
「僕は、夏が好きなんだ。人間、好きな物を忘れ去ってしまうと、一気に駄目になるんだ。恐ろしいものが、僕を殺しにやってくるんだ。」
布団に包ませたままのヴィンをストーブの前まで連れ歩く間も、彼はなにかをぶつぶつと呟いていた。

「本当に、何もかも忘れてしまったのかい?」
「だから、そう言っているじゃないか、現に今、僕が1時間あたり続けたストーブの熱は僕の体に入っては抜けていっている。心が冷めきってしまった、頭も冷えたけどね。このまま寒さのなか死にゆくんだ。」
「まだ、そんなことを言っているのか。」
「君には、分からないだろう?夏に守られている君にはさ。」
「…ヴィン、君には呆れてたよ。いったいどうして、そんなにネガティヴになってしまったんだい?能天気が君の取り柄だろう?」
ヴィンは鼻水を垂らしながら不貞腐れたようにそっぽを向いている。
確かに夏を思い出せないのは重症だ。病は気から、寒さも気から。彼は今その絶望感から、脳みそが身の危険を感じるほどの寒さを味わっているに違いない。どんどん顔が青白くなり、ついに横になるヴィンを見て軽く受け流してきた僕も、さすがにヴィンを不憫に思いその身を案じた。

無言が続き、しばらく考えて、僕は1つの考えに至った。今のヴィンより新しくて、無謀な考え。下手すれば、僕もヴィンも、死ぬかもしれないアイデアだ。それでもいいと、身勝手に僕は思った。
ヴィンが被っている毛布を勢いよく引き剥がし、その手を強く引いた。
「何するんだよ、僕を見限ったか?」
「ヴィン、外へでて走ろう!」
「はあ?僕を殺す気か!?」
「はは、そうだよ!」
何を笑っているんだ、と怒るヴィンを抱えて走った。その身体はすっかり冷たくなって、筋肉の動きも鈍くなっているのか抵抗する素振りも見せなかった。
二重に閉められたドアを開けて、積もる雪をかき分けて進んだ。僕もヴィンも、寝巻き姿に裸足だった。
「ほんとうに、どうしちゃったんだよ。」
「どうしちゃったんだろうな。」
「早く帰らないと死ぬぞ、ほんと」
「そうかい?僕は元気だけどね。君は?」
「僕は…あれ、僕も元気だ。」
「あははっ、そうだろう?ヴィン。踊ろう!」
冬の寒さだとか全て、忘れて駆け回った。
僕は両手を広げてくるくる回り、ヴィンが跳び回りながら寝巻きを投げ出すのを見て、同じように肌着姿になった。
そして息を切らしながら、ふたりで肩を組んで、その場に座り込んだ。赤く軋んだ指先の痛みなど、ふたりの脳が捉えることはなかった。
「なあ、外へでてよかったろう?それにほら、こんなに景色が綺麗じゃないか。」
僕の言葉に周りを見渡したヴィンは静かに息を呑んだ。目の前には真っ白な雪に染まった世界、そして凍った木々は陽の光をキラキラと反射している。
冬ごもりをしているため、村人は誰1人いない。
本当にただ、白と光が全てを形作った世界。
僕が雪の上に静かに寝転ぶと、ヴィンも同じように雪に倒れ込んだ。
「レオ。」
「なんだい?」
「僕、もう何も怖くないんだ。」
「うん。」
「冬が大好きになったんだ。」
「うん。」
「僕は…僕は、この村に産まれてきて良かったと思うよ。」
寝転んでわかった。空だけは今も青い。
その空はずっと遠くに見えた。
「レオ?」
凍てつく空気にレオの返事がわたることはなかった。彼は静かに目を閉じて、ただ美しく静寂に溶け込んでいた。
ヴィンも同じように、目を閉じた。
本当に、産まれてきて良かったと思いながら目を閉じた。
音も立てずに雪が降り、2人の身体も脱ぎ捨てた服も、また真っ白に塗り替えられていく。
心狂った彼らがその日みた景色を、二度と他の誰かが見ることはあるだろうか。
春になって雪が溶ければ、その全ては消えてしまう。
残るのは、それにたどり着いた者たちの、穢れなき身体だけだ。













この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?