もっと目の前の人と向き合うために
性別、年齢、国籍、宗教…。
人を分ける枠組みは、この世界に数えきれないほどあって、みんなどれかに当てはまるし、当てはまろうとする。当てはまると安心するし、当てはまらないと不安になる。
海外にいると、「日本人」として評価されることがとても多い。普通に仕事をしているだけで、
「日本人だから働き者だね。」
「日本人だから真面目だよね。」
とよく言われる。
日本は、ほかの国から好印象を持たれていることが比較的多いから、「日本人」という枠組みで評価されることを、ラッキーだと感じる人は多いと思う。だけど、日本人がみんな勤勉で働き者かと言われると、そうではない。最低限の仕事しかしたくない人もいるし、上手に手を抜く方法を知っている人もいる。
もっと身近なことで考えると、学歴社会の日本では、どの大学に通っていたかで評価されることが多い。
「〇〇大学ってことは、頭いいんだね。」
「〇〇大学だったらスポーツ得意なの?」
それぞれが持つ、その大学のイメージで目の前にいる人を判断しようとする。もちろん、その大学に行くために必死で勉強やスポーツに取り組んでいる人がたくさんいることは知っているし、全てを否定するつもりはない。でも同時に、大切なのは大学名ではなく、その大学で何をしていたかだ、とも思う。そして、実際に社会に出てみると、その人の人間性も重要視される。
自分が持っている国や大学などの枠組みのイメージと、目の前にいる人の印象が合致しなかったとき、特に、目の前の人にマイナスな感情を持っているときは、それまで持っていたプラスの感情を、マイナスに変えてしまうことが多い。
学生の頃、修学旅行や部活の試合で校外に出るときには、
「〇〇学校の一員として恥ずかしくないように行動しましょう。」
とよく言われた。もしあなたが悪いことをしたら、同じ学校に通う友達の社会からの評価も悪くすることになる、と。学生の頃は、素直に頷けていたけれど、最近は少し引っかかる。確かに、人に迷惑をかけるのはよくない。何もしていない側からすると、何かと連帯責任にされがちな学校という世界で、関係ないことで一緒に怒られるのは、決していい気持ちはしない。だけど、「だから悪いことをしてはいけない」のではなく、その行動がどうして悪とされるのかを、子どもは学ばないといけないし、大人は伝えないといけないと思う。
いつも何かの一員として評価されるのが当たり前な社会は、ちょっぴり生きづらい。
もっと、目の前にいる人をまっすぐに見つめることはできないだろうか。「海外に住む日本人の私」ではなく、「あなたと一緒に働く1人の人」として見てほしいし、「〇〇から来たあなた」ではなく、「私と一緒に生活する人」として、あなたを知りたい。その人がどこに属しているかではなく、ましてや噂からなどではなく、私の目の前でとる行動や発言で、その人を知りたいと、私は思う。そして、私の目の前にいる人を通して、相手がいる枠組みや、その価値観を学んでいきたい。
これが叶ったとき、私も相手も、自分が当てはまる枠組みや、過去に囚われることなく、純粋に「今の自分」を見てもらえるようになるんじゃないだろうか。そしてそれは、今の社会を少し生きやすくする気がしている。
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