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モーツァルトの史実には並行世界(パラレルワールド)が存在する説について

通説だった死因を覆す奇書

12歳の頃に映画『アマデウス』を観て以来モーツァルトを愛してきたが、フレディ・マーキュリーの生涯を描いた映画『ボヘミアン・ラプソディ』を観てモーツァルトとダブらせてしまった。

天才らしい稲妻のような霊感。大胆な言動。常にパーティーの主役でありながら、夜はぬいぐるみを手放せない子供のような孤独を抱え、若くして散った孤高の一匹狼。

そして2人の死因は、どちらも「感染症」・・・

モーツァルトを少し知っている人なら、ここで早々に異議を唱えたくなるだろう。モーツァルトの死因は、サリエリの嫉妬による毒殺説や、フリーメーソン会員による暗殺など様々なスキャンダラスな噂があったものの、一般的には「病死」ということで落ち着いているからだ。「感染症死」などという説は、これまで聞いたこともない。

田中重弘氏の『モーツァルト・ノンフィクション』は、彼の死因を感染症死とした、異色のモーツァルト本である。

田中氏は音楽学者ではない。しかし仕事でヨーロッパに長く駐在していた経験があり、現地で独自の取材活動を重ねたらしい。そして彼が音楽研究者でなかったからこそ可能だった、ユニークな視点で書かれた本である。

これまで書かれたものは、最初に音楽家モーツァルトという人を中心に置き、そこから関わりがあった関係者や社会情勢などを周辺情報的に書くものがほとんどだ。音楽学者か歴史学者は、もともとそれ自体を研究しているのだから当然といえば当然だが。しかし自分の専門分野を中心にして書くということは、あるところばかりを誇張し、他は無視してしまうという「いびつさ」が生じてしまう場合がある。そして我々はこれを正しく調査された普遍的史実だと考える。有名な芸術作品すら、史実だと思い込んでしまうこともある。

田中氏は、そのフィクション的要素をなるべく排除しようと考えた。どうするか。まずはモーツァルトが生きた時代背景を詳細に浮かび上がらせようとするのだ。本書は逆方向からスタートする。当時の政治・社会システムや医療システムを鮮やかに浮かび上がらせ、その中に「ザルツブルクに住む、ある変わった家庭」そして「モーツァルトという男」を置く。すると、モーツァルトという人間が社会構造のどの位置に生き、どのように社会と関わり、どのように生き延びようとしてきたのかが、より客観的に見えてくる。

したがって、本書の大半は18世紀ヨーロッパの習俗や社会情勢、貨幣・経済制度、言語世界、国民性や音楽の好み、メンタリティへの言及に費やされている。(ときにモーツァルト張本人ですら、周辺情報に紛れて登場しなくなるほどだ)特に医学・薬学事情は特に詳細で、当時の最先端治療の(現代の私たちには)生々しさが手に取るように伝わってくる。これらの膨大な知識の中にモーツァルトという人を置いた時、はじめて見えてくる「隠されたモーツァルト像」へ。たどり着くまでの道程が実に凄まじいのだ。

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ここでモーツァルトの人生と死を振り返る。

35歳の秋。
モーツァルトは突然体調を崩し、病床に臥せた。
身体が異様に浮腫んで寝返りすら打てなくなり、わずか2週間であっという間に亡くなった。死因は「急性粟粒疹熱」とか「シェーライン・ヘノッホ症候群」とか、よくわからない病名があてられたが、確実にこれという死因はいまだに特定されていない。

晩年のモーツァルトは仕事にいそしんでいた。
久々に当たったオペラ『魔笛』はロングラン中。黄色い声でもてはやされることはなくなったが、30代半ばになり、徐々に実績も積み上がっていた。ハンガリーやロンドンなど、あえてこちらから出向かずともオファーが来るようになった。そんな矢先の急死だった。

モーツァルトの人生は、誕生から死まで常に音楽とともにあった。
音楽家の父のもとに生まれ、どんな曲でもわずか30分でマスターした。その才能に驚いた父レオポルドは、息子が6歳になった時、一家でのコンサートツアーを計画した。ヨーロッパ各地の要人達に、神に選ばれた我が子を、この目で見てもらおうというのだ。奇跡の息子は、旅先で王や貴族にもてなされ、寵愛された。ヴォルフガング・モーツァルトは、とんでもなく早く「音楽家」としてのキャリアをスタートさせたのだ。

しかし成長するにつれて「何だ、大人になったのか。生憎、いい音楽家なんて、君の他にもいっぱいいるよ」と、就職に失敗し続けた。特異な経歴はむしろ裏目に出た。「こっちは神童なんて求めていない。それどころか天才なんてご免だね。面倒くさいだけだから」

モーツァルトは努力や才能以外の要素、世間の「隠蔽された本音」をついに察することができなかった。父親は特殊な事情に悩む息子に対し「世間」と一緒になって彼を責め立てた。息子はもはやどうしたらいいのかわからなくなった。ここではないどこかを夢見て、当て所もなく彷徨い続けた。

20代半ば、魂が削られるような思いで勤めていた地元のザルツブルグ宮廷で、雇い主の暴言に耐えかね大ケンカになった。彼はその場で強行辞職しフリーの音楽家としてやっていく覚悟をきめた。その後、父の反対する娘と(またもや)強行結婚。子をもうけたが、どれだけ仕事をしても金は残らず、多額の負債を抱えたまま、35歳の人生を終えた。

これで全てと言えるのか?

『モーツァルト・ノンフィクション』では、このモーツァルトのプロフィールには、何か重大な要素が抜けていると主張する。彼の人生には、確実に存在したが「おおっぴらに語れない一面」がある、というのである。

モーツァルト梅毒説だ。

モーツァルトが梅毒だったという噂は、今も密やかに存在する。女性関係が多かったモーツァルトならば、当時流行していた性感染症である梅毒にかかっていてもおかしくはない。しかし著者が言うのは、彼の死因すら梅毒がらみだということ、そして母親の胎盤から感染した先天的(潜在的)罹患者だという新たな説である。そしてこの病気が、彼の人生にとってどれほどの足枷(障害)になったか、ということを考察する、異色の、いや異端の本だ。

著者のモーツァルトは、これまでのモーツァルト像を足元から崩壊させる。貧乏だが純粋で天使のような芸術家。もしくは、ワガママで幼稚、生活力や常識のない人。著者の見立ては全く違う。実際のモーツァルトは羽振りも良く、蓄財にも余念がなかった。彼は実にうまく策を練られる人物だった。彼のパトロンであるプフベルク伯に向けた、あの切なすぎる借金申し出の手紙すら、一種の「(借金)プレイ」だったと、驚くような説を展開する。

全てが既知の真逆をいっている。
鏡の世界にいるようだ。

何よりも通説と異なるのは、彼の人生全体を覆う「暗雲」の存在である。

モーツァルトは、音楽での成功と同じくらいあるものを切実に求め続けていたというのだ。お金では決して買えないものを、彼は生涯求め続けていた。

それは「健康」だ。

モーツァルトは、梅毒患者コミュニティによって引き合わされた父と母の間に、先天性(潜在性)梅毒罹患者として生まれ、死んだのだ。

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解せない「発熱」からの出発

著者が最初に違和感をおぼえたのは、息子の「発熱」に対する、父親の奇妙なふるまいだった。

足かけ何年にもおよぶ演奏旅行の途中、父は決まって息子が発熱した時にだけ、異常な興奮をもって故郷の友人に詳細な手紙を書き送っているからだ。

それは、手紙というより「所見」だ。

息子の発熱は、故郷の友に何を伝えようとしているのか?モーツァルト一家にとって、発熱とは、いったい何を意味するのだろうか?
そこが出発点だった。

著者は手紙をくまなく読んで、演奏旅行のルートと、旅先での病気を照らし合わせた。病気の症状と父親の対応、そこから導き出される父の思惑。成人した息子の就職活動に母親が同行した理由、母の死因の謎、手紙に何度となく登場する黒い酸薬、モーツァルトの子供たちの名づけに関する共通点、モーツァルトの旅行とコンスタンツェの体調不良の時期など。音楽学者や歴史学者ならば流してしまうだろう些末な情報や、日常のエピソードをより重視した。

一次資料は、後にも先にも「モーツァルトの書簡」。そして(現在では恣意的だとして重要視されていない)妻コンスタンツェの再婚相手ニッセンが記した「モーツァルト伝」だ。加えて現地取材として当時の旅程を旅した。そしてある仮説にたどり着いた。

「モーツァルト家は、一家で梅毒に冒されていたのではないか」

彼は症状の発現と治療に、一生のほとんどを懸け続けていたのではないか?

6歳から始まった大演奏旅行は「才能を世に知らしめること」という崇高な理由からではない。あるいはギフテッドの息子をダシにして、一儲けしようという目論見だけではない。あくまでそれは、後付けの「タテマエ」だ。

レオポルド・モーツァルトが本当にしたかったこと。それは、梅毒患者が多かった当時の王侯貴族のツテと同情を頼りに、天才的な才能を持つ息子の将来を案じ梅毒の完治法を捜し歩く、親として死に物狂いの旅だったのではないか。

著者の中で、日常の些末なエピソードの数々がある目的を持った重要なものとして立ち上がり、一本の線でつながった瞬間だった。

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感染症と人権問題

梅毒は現在、抗生剤の投与で完治できるが、当時はそうではなかった。症状は出たり引いたりしながら長い歳月をかけて悪化し、徐々に激しい精神症状が出てくる。原因も、現在は「梅毒トレポネーマ」という細菌感染によるものだということがわかっているが、当時は「汚れた血のせい」だと思われていた。快楽主義の貴族や文化人、衛生状態の悪い風俗嬢などの間でよく見られた性感染症である。当時のハプスブルグ家は一族が罹患者で、女帝マリア・テレジアですら梅毒だったという。

不思議なことに、罹患者同士は、皮膚症状や姿恰好などから無言のうちに「同類だ」と勘づいたという。そして暗黙の当事者意識を持った者たちは、これまた暗黙の了解のうちにお互いを気遣い、連帯し、静かな共感でつながったのだという。(本書ではこれを「梅毒シンジケート」と呼んでいる)王侯貴族たちは、慈善活動や梅毒撲滅キャンペーンの一環として、病に侵されながらも音楽の才に恵まれた姉弟の演奏を聴いた。モーツァルト一家は、そのような「精神的縁故」によって各地で活動の場所を与えてもらったのだ。

しかし、それ以上の関係になることは誰もが恐れた。マリア・テレジアは「召し抱える気はありません。彼の家族は大きい」そう言って拒絶した。著者によれば、この「大きい家族」という表現がまさに「罹患者コミュニティ」だということらしい。当時のエグゼクティブたちは、自分たちも同じ病でありながら、下層階級の罹患者に対し激しい差別や偏見を持っていた。

それを肌で感じたのか、モーツァルトは同情されることは大嫌いだった。だからこそ才能と努力だけで自身のキャリアを得ようと奮闘した。父親は同情にすがれと教え込んだが、息子はそれきっぱりと拒んだ。

25歳の春、宮廷退職のきっかけとなった雇い主ザルツブルグ大司教から浴びせられた叱責は、彼にとってはどうしても許せないものだった。その暴言はまさに「梅毒罹患者を揶揄したスラング」だったからだ。大司教がモーツァルトに放った「フェクス」という言葉。それは当時の社会で最も恥ずべき者、梅毒の進行により精神に異常をきたした者を指す隠語だったという。彼はその場で辞職を願い出た。

モーツァルトは、それから1か月以上激怒し続ける。組織を擁護する父も信頼できなくなった。そして「人の品位は、身分ではなく“人の心”です」と言い切り、誰の賛成もない中で、フリーの道をひとり歩き始めたのである。

結局、モーツァルトの死因もこの梅毒がらみだったという。彼は梅毒完治のために、ある先進治療に踏み切ることを決心したのだ。幼い頃に演奏旅行で立ち寄った当時の医療大国オランダで受けた「発熱療法」に、再度挑戦しようと思ったのだ。

オランダでの姉弟の病気は、少し専門的なモーツァルトの書籍であれば、旅先のエピソードとしてごく普通の出来事として扱われている。

1年以上に及ぶパリ・ロンドン滞在から帰路についた1765年。モーツァルト9歳。一家はアムステルダムに途中滞在した。

父の記録にはこのようにある。「9月、まずナンネルが、はやり病に感染した。一時は危険な状態だった。ヴォルフガングは元気で、隣室で作曲に没頭し演奏会にも出席した。しかし姉が全快した11月、今度は弟が同じ病気にかかった」

著者は、これこそ時間差で行った姉弟への梅毒治療であり「意図的な発熱」だと考えたのだ。しかもこの療法はかなり衝撃的な方法で、死を覚悟したうえで挑戦する、あまりにもな治療法なのである。

狂気の荒治療、その方法。

まず口からサルモネラ菌を飲み、腸チフスを意図的に発症させる。約2週間の潜伏期間で発症、40度近い高熱が2~3週間続く。これを乗り切って解熱し腸チフスが癒えたとき、梅毒菌も一緒に死滅しているという発想だ。つまり故意に腸チフスを発症させて高熱を出し、熱に弱い性質を持つ梅毒菌をやっつけようというものだ。(現在では発熱で完全死滅は不可能ということはわかっている)

想像しただけでも辛く苦しく、ヤバい感じしかしない。

年々体調が思わしくなくなっていくことを気にしていた彼は、一度は下火になったものの、近頃増えてきた仕事に支障がないよう、むしろ先手を打つことにした。「この際、一気に滅菌してしまえ!」と思ったのだ。『レクイエム』の依頼も、宗教曲は「高額案件」で、正直おいしい仕事だった。死神だの何だのという不吉な憶測以前に、1日でも早く納品したいところだ。妻が心配して大袈裟に騒ぐと思い、黙って挑戦することにした。(これが後にバレてしまい、妻の逆鱗に触れる)

「寒気がするぞ。熱も上がってきたようだ。いいぞこれからだ!それにしても辛い。だるさも酷いし、食事も吐いてしまう。しかし体力を消耗するわけにはいかない。ここは吐いてでも食べねばなるまい。なんせ先は長いのだから!」

だがしかし、熱がうまく上がらない。
高熱には程遠い。
仕事ができるくらいなのだ。
これではダメだ。

過去に一度罹患した腸チフスは、すでに抗体がついていたのだ。しかし当時はそんな知識もない。滅菌はおろか、何も知らない医師に冷たい湿布を処置され、解熱を狙っての大量の瀉血で、最後の体力を奪われた。

完全に失敗だった。

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こんなモーツァルトを知らしめていいのか?

著者はいう。「真実は怖くない。偏見が怖い」
いかにそれが歴史的な偉大なる音楽家であっても、感染症から感じられる「ネガティブなイメージ」「穢れた感じ」はつきまとう。

この本の出版は1991年。折しもモーツァルト没後200年にあたる年だ。映画『アマデウス』の公開もあり、19世紀から定着していた「悲劇の天才」というイメージから、子供っぽく生意気だが、楽しいことが大好きなキャラクターへと変わりつつあった。しかし感染症への偏見とは、そんなに生易しいものではないと、著者は先んじてわかっていた。

その証拠に、コロナ禍で私たちは嫌というほどこの手の差別を思い知らされる。ましてや梅毒は「迂闊さ」と「だらしなさ」を想起させる病気である。この記事をここまで読んだだけでも、反射的に嫌悪感を感じるという人もいるかもしれない。

だから、ひとえに「生きたい」と願ったモーツァルトが安易に誤解され、穢れた存在だと決めつけられたら、これこそ悲しいことなのではないか。著者は自説を唱えると同じエネルギーをもって、葛藤を吐露している。

モーツァルトは繊細な感受性を持ちながら、当時の人間の何倍もの経験をした。それゆえ、自らの生は自分の責任で精一杯謳歌すべきだと思っていた。メメント・モリを体感として理解していた。

弱さと葛藤を抱えながら、生涯ついて回った「暗雲」に目をそむけることなく、希望を失わず、常にベストを尽くそうとした生への真剣さ。モーツァルトの生きる姿勢を想えば、これまで以上に彼が近く親しく感じられるようになるのではないか。祈りを込めて本書は締めくくられている。

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私が本書を「無碍にできない」理由

さて。この都市伝説みたいな著書の真偽について、どう考えたらいいのだろう。著者はこの衝撃的な仮説よりも、その影響、物議の方を心配して、巻末に参考文献や取材元を書いていないのだ。さらに初版で絶版になっている。

この奇妙な説を肯定することは、なかなかに困難だ。それは、モーツァルト自身だけでなく彼の関係者、母国の国民感情や世界のモーツァルトファンにとって不都合な真実だからである。もしこの説が採用されてしまったら、全ての学説を「再インストール」しなければいけない。それがどれほどの混乱をきたすだろうか。そしてどれほどの偏見を生み出すだろうか。

とはいえ、荒唐無稽だと切り捨てるのは、これだけの時代考証と情報収集、テキストの読み込みの量から言って、実はかなり惜しい。

というのも、私が人生で一番最初に「モーツァルトの手紙」を読んだ時に心打たれたのは、モーツァルトの華やかさでも、面白さでも、才能でもなく、ひたむきすぎる「生きる姿勢」だった。『モーツァルト・ノンフィクション』で著者がもっとも言いたかったこと――彼の生きることに対する鬼のような真剣さは、どこから由来するものなのか?と私自身も考えていたから。

そして、やはりモーツァルトには生きるために人一倍真剣にならざるを得なかった、何らかの理由があったのではないかと、思えてならないのだ。
そう考えるには2つの理由がある。

理由①モーツァルトの人間性

まず、モーツァルトの性格であれば、仮にこのような衝撃的な荒治療であってもやってしまうのではないか、と思えるフシがあるからだ。これはちょっと、モーツァルトを好きな人ならばわかってもらえるような気がする。

「アイツならきっと、ここまでやる」

確実に治るために、1か月も熱に苦しまなければいけない荒治療にすら果敢にチャレンジしようと、瞳を「らんらんと」輝かせている彼の姿が、目に浮ぶではないか。

しかも彼は(当時のだが)医学を信じていた。彼は信仰深かったが、啓蒙主義者でもあるのだ。

周囲が好奇な目で見ようがドン引きしようが、やるといったらやる。彼ならば、ここまでしてでも「明日を生き伸びようと」するだろうと。

彼にはまだ、追求したい音楽があった。
妻も子供もいた。
生きるという選択を、しないわけがない。

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理由②手紙に見られる暗喩的表現

以前から「モーツァルトの手紙」を読んでいると、ときおり奥歯に物がはさまったような気持ちになる箇所がある。

父子の手紙に「文字にされていない」ある共通体験・共通認識への意思確認のような部分があり、それが2人の絆を強固かつ依存的なものにしているのではないか、そう感じる時がある。
例えばこの手紙だ。

今日まではぼくたち四人は、
このとおり、幸運でも不運でもありませんでした。
そのことをぼくは神に感謝しています。
(1777年11月29日) マンハイムより在ザルツブルグの父レオポルドへ

「このとおり」とは、何を想ってのことなのだろうか。もちろんこの一家は、誰にも理解できない道を歩んだ家族であり、想像もつかない常識の中で生き、それゆえの苦労もあった。

しかしモーツァルトの手紙を読むと、このような「ちょっと暗喩めいた表現」がしばしば登場する。その対象を特定しようとしても、通常の資料の解釈だけではたどり着けないものを感じるのだ。それに適合するたったひとつの「魔法のワード」が「梅毒」なのかはわからないし、今の段階ではこれは確かめようがない。

しかし後世の伝記や創作物において、モーツァルトという人が他の作曲家に比べダントツに「謎めいたキャラクター」として表現される理由は、どこか感じられる彼の2面性にあるのではないかと考えている。(さすがに梅毒説は唱えていないが、磯山雅にも『モーツァルト2つの顔』という、彼の2面性を考察した著書がある)

これは妻コンスタンツェとの結婚にもいえそうだ。結婚前、モーツァルトは売春婦と頑なに遊びたがらなかった。(このときの手紙には「病気への過度の恐れがあるため、売春婦とは遊びたくない」と明言している)『モーツァルト・ノンフィクション』での見立てに乗っ取れば、モーツァルトは、下宿先で知り合ったウエーバー家が、自分の境遇と同じ潜在的保菌者だと知る。(なぜそうとわかったか、は本書に詳しく書いてある)

またモーツァルトは父への手紙で、ウェーバー家へのシンパシーを何度も語っている。「あの一家はうちと似ています」と書き送り、自分の家族を重ねた。ところが息子には「ウチのようではない人生」をと望んでいた父は、猛反対。しかし息子は譲らなかった。逆に「そもそも、こうなったのは誰のせい?」と言わんばかりに父に反抗し、ウエーバーの姉妹に殊更こだわった。

父の警告どおり、妻は結婚後頻繁に体調を崩し子供を何人産んでも死んでしまう。モーツァルトは、妻が自分と結婚したせいで「再発症」したのだと自分を責めた。責めれば責めるほど、両親への怒りが沸いてきた。彼は本心では親を恨んでいた。しかし父は音楽の師でもあるため、その気持ちを完全に抑圧していた。

その気持ちが妻には逆に働く。療養中の妻が、常に心配で心配でならなかった。「自分が妻の病気を再燃させた」という罪悪感と責任感で、いっぱいだったからだ。彼はその重圧にいつも押しつぶされそうだった。だから苦しむ妻をできるだけ甘やかし、やれることは何でもやりたいと思った。医療費や薬代はとことん惜しまずに長期湯治にも行かせた。

「罹ってごめんなさい」
「うつしてごめんなさい」
こんなことは、言う必要も、思う必要もない。
でも、どうしても人は思ってしまう。
モーツァルトでさえもだ。

モーツァルトーー生きづらさのアイコン

穿った勘ぐりを入れる私のような者には、彼にまつわる疑問をこの1冊にすべてを落とし込めれば、これほどラクなことはないだろう。「それは病気のせいでした」ーーこれであらゆる符号がマッチする。しかし実証は難しいし、全てが著者の言う通りだというのは、それこそ雑で無謀な推論だろう。

この説をどう考えればいいのか。
答えは、やはり本書の中から探し出すことができる。

本書には、モーツァルトの音楽の魅力(魔力)をこのように語っている。

梅毒患者を噂されている19世紀の作曲家と作家や詩人は、私の知る限りでも上に挙げた以外20人を超えるが、それらの藝術家は、例外なくモーツァルトの賛美者なのである。しかも彼らは揃ってモーツァルトの音楽のデーモニッシュな面を高く評価する。

しかしモーツァルトの音楽が実際にそのような即目を持っているのも事実である。そこにテレパシーが働くのかもしれない。部外の者には窺い知ることのできない神秘的な内面世界が、そこにあるといってよい。(同)

モーツァルトの音楽は本来、まともでない社会に住んで苦しむ人々や、病身の人や心に痛手を負った人たちにこそ、真の価値がある「限定藝術」なのである。(同)

著者はモーツァルトに惹きつけられる人たちに、一種「血族」のような精神的共感が見られると述べているのだ。

これはおおいに頷ける。歴史的な芸術家でなくとも、例えば私たちのような市井の者にとっても、モーツァルトを愛する者同士でどこか「精神的に同質的なもの」を見たことが一度はあるのではないだろうか。自分と同じ匂いがする。そう直感したり、最初から安心感があったり。

私はこのモーツァルトの「血族」を(梅毒罹患者同士としてではなく)精神的な共感の象徴、と捉えることで着地点を見出そうと思う。この説によって「モーツァルトを愛するということはどういうことなのか?」という本質に近づこうと思う。

モーツァルトを愛する者達とは、彼の音楽の素晴らしさだけではなく「モーツァルト」という人への共感を、共有している者同士なのである。モーツァルトは、アーティストとして彼の人となりを含めて愛さなければ、決して真の魅力に到達できない、ロックのような音楽なのである。つまりモーツァルトとは初代ロックスターなのだ。私がフレディ・マーキュリーを重ねてしまうのも、モーツァルトが18世紀の音楽家でありながらロックスター的要素を持っているからだ。モーツァルトとロックーー私たちは何に共感するのか。それは「生きづらさ」だ。

モーツァルトは最初の「生きづらさ」のアイコンとなった音楽家ではないだろうか。35年のままならなかった人生。うまく生きれなかった。けれど最後の最後まで、自分を貫き通した。これだけは死んでも渡さない、強い自我や美意識があったのである。

この魂に触れることができた時、私たちは、彼と彼の音楽に「感染」する。ただしそれは「病」ではない。「光」であり「希望」である。彼の音楽が生きづらいと悩む私たちの背中を、そっと押してくれるようになる。

「君もそうだろ?わかってくれる?」

私が著者の仮説を無碍にできないのは、そんなモーツァルトの持つ不思議な感染力と生命力の根源を、これ以上どう説明したらよいかわからないからである。

実は今も混乱している。
おそらくずっとザワザワし続けるだろう。そしてこれからも「明らかになったかもしれないもう1つの世界」を常に脇に置きながら、私は「歴史的正史」を採用し、それに沿って音楽を聴き、ものを書き、生きていくのだろう。それはまさしく、パラレルワールド(並行世界)である。

最終的には「彼からもたらされた音楽」だけが、その答えを知っているということだのだろう。謎は謎のまま、置いておくことにしてーー。

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引用・参考文献
田中重弘『モーツァルト・ノンフィクション』文藝春秋
柴田治三郎訳編『モーツァルトの手紙 その生涯とロマン(上)』岩波文庫
柴田治三郎訳編『モーツァルトの手紙 その生涯とロマン(下)』岩波文庫
高橋英郎『モーツァルトの手紙』小学館
アルフレート・アインシュタイン『モーツァルト その人間と作品』白水社


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