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書評コラム『黒の服飾史』~黒という記号を纏う~

黒はいつから意識高い系の色になった?

私は黒い服を偏愛している。
愛している自覚がないほど愛している。
お店で黒服を見ると気持ちより先に手が伸びる。黒は静かな吸引力で、ダイソンの掃除機なみに、私を吸い寄せる。

この本を書店で目にした時も全く同じ原理がはたらいた。カラフルな背表紙の中に、強烈に浮かび上がって見えた「漆黒の太い線」。すぅっと近づいて、私はもう本を引き抜いていた。どうしてこうも黒い服が好きなのだろうという長年の疑問。もしや突き止められるのではないか?

黒はネガティブな色なのか?

私自身は、黒を「好きな色」だと意識せずとも自然に選び取る色である。着ると心地いいのだ。思えば私のクローゼットは、20歳前後から黒が大半を占めるようになってしまった。今も、だいたい服のどこかに黒を使っている。

そんな私に、もっと別の色を着てみたら?と、さかんに勧めてくる人もけっこういる。「黒なんて葬式(死)の色だよ」「性格の暗さが服に現れている(悪かったな)」等々。黒の持つわかりやすいネガティブな面を、何故かしきりにプッシュして。

たしかに、黒は喪の色であり闇の色だ。でもそればかりではないとは断言できる。「喪」や「闇」を超え、もっと魅力的に積極的に受け止められてきた歴史があるから、ずっと着続けられているのではないだろうか。そういえば、アーティストや意識高い系の方々、金の英字の入った黒いスウェットを好むヤンチャな方々まで好まれ、黒は「王座の色」としての風格さえ漂っていると思うのだが・・・

徳井淑子『黒の服飾史』(河出書房新社)は、西洋における黒い服の歴史を中世から現代までたどり、黒という色の持つ「意味」が、いかに歴史的に変化し多様になってきたかがわかる一冊である。この本では、冠婚葬祭という特別な場面に着られる黒だけでなく、普段着からモードに至るまで、黒い服の意味の変遷を、絵画や文学や文化思想と結びつけながらたどったものだ。西洋史と黒が大好物な方にとっては、ヨダレの垂れる一冊だ。

黒の歴史をざっと。

中世以前、黒い服とは「貧しさ」「醜さ」を意味していた。
それには技術的な事情がある。「真っ黒」に染め上げるということは、当時とても難しく、単に暗い色に単に染まっただけの「黒っぽい色」にしかならなかったからだ。土や泥、埃や垢・・・ダイレクトな汚れを隠してくれる安易な服の色として使われた「貧乏人の色」だった。

しかし大航海時代、「漆黒」に染めるための染料が輸入された。染色技術も確立し、黒は一転して最先端かつ高級感あふれる色として、「貧乏人の色」から「権力」と「豪奢」の色となった。まさに「大貧民」、逆転勝者の色である。(ヤンチャな方々は、このあたりに惹かれるのだろう)

そして、ルネサンス期の人間性礼賛もあり「理性」や「禁欲」といった意味も加えられた。さらに時代が下り、産業革命の頃になると「勤勉さ」(この延長がリクルートスーツ?)が台頭する。カトリックの、ギラギラギトギトした深紅に対し、プロテステンティズムの象徴(資本主義時代の勤労観=まじめによく働く人々の色)としての意味が加わったのである。

時代はロマン主義まっただ中。黒はブルジョワジーの色となる。この頃、黒は男性、カラーは女性といった「ジェンダー的」な服飾観ができあがり(無彩色に対して、有彩色は感情的で未熟なものと考えられていたのである!)、服装による性別のすみ分けが社会常識として出来上がった時代でもあった。

またこの時代は、芸術分野では、感情の爆発にかっこよさを求めた時代でもあった。したがって、黒=憂鬱=メランコリックという意味も加わった。本を読んで初めて知ったのだが、中世では、悲しみは爆発的な感情だったらしい。怒り、に近いのかもしれない。中世の人は、悲しいと暴れたのだ。それゆえ悲しみは「悪いもの」であった。しかし、時代とともに人間の感情が複雑化してくると、悲しみは自己の中で噛みしめるもの、涙を静かに拭いながら受け止める「人として当たり前の感情のひとつ」となっていく。ロマン主義時代、悲しみはむしろ甘美で芸術的で高尚な感情として扱われた。黒はそれを象徴する色、芸術的で病的で感傷的な色となったのだった。(たぶんYOSHIKIの着る黒はこれ)

その後、身分の上下を明確に表現する制服(執事やメイドのための給仕服)として、またイブニングドレスに見られるようにセクシーさを表す色、シャネルなどのモードの色や個人主義の色として使われるようになっていく。本の中ではではさらに細かく紹介しているが、ネタバレも心配だし、あとは読んでのお楽しみということにしておく。

思い出したくもない過去の経歴を「黒歴史」などと言ったりするが、黒い服の歴史は、実はその真逆をいくサクセスストーリーだ。単なる貧しさや醜さの色から、自己実現に成功した人間の色として変身していったのだ。黒が象徴するものや意味するものは時代を追うごとに増えていく。それは時代ともに見直され、見いだされ、豊かに、そして魅力的になっていったのだった。

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熱い黒。冷たい黒。

黒の多義性。こうしてざっと概観しただけで、バラエティに富む黒の世界だが、着る場面や服のデザインによって、まるで別ものを着ているような面白さがある。同じ黒でも、その奥に色を感じる時もあれば、完全な漆黒しか感じない服もあるのだ。人から見ればただの「黒い服」かもしれないが、私の中では「別の黒」として存在している。

たとえばフリルやレースのついたゴスロリ的な服。以前は、ゴシック建築の聖堂をそのまま身にまとっているかのような重量感が好きで、よく着ていた。ロマンチック、グラマラス、エロチック、グロテスク、ドラマチック。そんな時に着る黒は、ステンドグラスのように極彩色な世界。感情的熱量のある「熱い黒」。

対して、漆黒の迫力を感じさせる黒い服もある。まずは僧服。これは永遠の憧れである。アニエス・ベーのスナップボタン・カーデガン「プレッションカーデガン」。これはコンセプトがすでに「僧服へのオマージュ」なので狙い通りだが。これらの服は、内面から湧き上がるものをあえて否定し、黒の力で抑え込む。「冷たい黒」。

「冷たい黒」を着る時は、修道士のようにスピリチュアルにミニマリスティックになりたい時。感情に疲れた時などだ。

白を語らずに、黒は語れない。

さて、この黒の威力を十分に発揮するために必要なものがある。白だ。黒を引き立たせるには、白の助けも借りなくてはいけない。

さあこのモノクロームの世界も、目が眩むほど魅力的ではないだろうか?少なくとも私はそうだ。黒いスーツに白いシャツやブラウスを合わせたモノクロのコントラスト。シンプルな、ぬるりとした黒ワンピースの白い襟やカフス。漆黒と純白の組み合わせを、これはもうフェチではないかというほど愛している。

『黒の服飾史』では、黒い服の歴史を語るうえで欠かせない、白の歴史も並行して語られている。黒が技術革新によって漆黒になった頃、白もまた技術革新によって、生成り色から「純白」へと変わりつつあった。この絵のように、襟元と袖に純白のフリルやレース(下着という)を上品に覗かせることは「わたしは清潔なものを身につけられるご身分である」という証であった。

漆黒と純白。これがいわゆる「意識高い系の色」の始まりだったわけだ。

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黒の役割。守られ、包まれる。

さて、黒についての歴史的な意味はわかった。その上で、では自分はどういう理由で黒を着るのか。黒を愛する方々は、少し振り返ってみるのもいいのではないかと思う。

まず1つ目は防衛だ。光ある昼間の雑踏が苦手な方はこの感じ、わかるのではないだろうか?雑音に隠されてしまいそうな心の奥の小さな声を、自分が自覚できるようにするために黒を着る。落ち着きと防衛の役割。それはまた、夜の空気感(モード)に自分を引き込んでくれる。精神を夜モードにすることで、すぐに泡立ってしまう心に、静寂を与えることができる。光の差し込む昼間もいい。日当たりのいい部屋、森の木漏れ日、都市の雑踏。でも、ずっと剥き出しのままだと疲れてしまう。昼は外界や他者を見つめることと、他者からのまなざしに自分を合わせていくための時間だ。真っ昼間とは、自分自身の声には意識をほとんど向けない、向けられない時間帯なのだ。

昼は誰もが自分を強く見せようとする。一生懸命人に合わせ、誰かのニーズに応え、強く振る舞う。しかしそれが、時にゴムを限界まで伸ばし切ったテンションの高い、危うくギリギリの世界に映る時がある。

しかし夜になれば、昼間雑踏にかき消されたものの声が聞こえてくる――夜の静けさとともに、立ち現れてくる秘密の声。夜だからこその打ち明け話、深い谷底を覗いたり、遠い宇宙の彼方を見上げるような遥かな会話。もう昼間のように、強く賢く見せようと努力する必要もない。夜は、おずおずと打ち明けられる何かがある。夜のしじまの中ならば。その状態を故意に作り出せるのが黒い服なのだろう。

しかし同時に、黒は攻撃性のある色でもある。ブラックスーツであれ、ヤンキーの黒いスウェットであれ、ゴス服であれ。黒は周囲を圧倒し、威圧する。そんな時、黒のネガティブが顔を出す。だからせっかくの黒、やはり魅力的にまといたい。

私自身は、いつか黒のレセプションドレスをさらっと着こなしたい。これが目標だ。自分だけが安心できる黒を超えて、やわらかな光を放つように黒い服を着る人になりたい。夜の街にともるガス灯のように、ふとした希望を感じさせるような、そんな「暖かい黒」の着方を追求してみたい。



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