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『家の中にいる知らない人』

【小説・約2000字・4分程度】

 私が二階にある自室から階段を下り、台所へ夕飯を取りに来た矢先の出来事だった。

「美味しいぞ! 今日の夕飯はハンバーグにしたんだ!」知らない人が突然話しかけてきた。

 どうやらこの中年の太った男は、私が一階に降りてくるのを見計らっていたらしい。リビングかどこかで耳をそばだてていたようだ。
 この家の階段は古く、ゆっくり昇り降りしても軋む音が鳴る。私の部屋は二階にあり、階段を通らずに一階に降りる方法はない。そして食事はいつも一階の台所に置かれている。そんな構造をどこからか聞き付け、通り魔のごとく待ち伏せしていた様子だった。

 こういう手合いは下手に反応するより相手にしないに限る。どうせ異常な行動を取る人物にかける言葉も思い付かない。言葉が通じるかどうかもわからないし、誤解されるよりは刺激しないほうが良さそうだ。私はそう考えた。

「なんだ、みゆきはハンバーグが好きじゃないのか」返答しない私に対し、目の前の男はさも意外な風に言った。

 私がハンバーグを好きだったのは小学生の頃の話だ。今は取り立てて好きでも嫌いでもない。どちらにせよお前には何の関係もないことだ。
 この夕飯を用意したのはうちの母親であり、これもお前には関係がない。私をなれなれしく下の名前で呼ぶな。言うまでもなくこの男と私の間には何の人間関係もないはずだ。いったい誰なのだろう? なぜ絡んでくるのだろう?

 私は夕飯を電子レンジに入れ、手早くボタンを操作する。その度にピ、ピ、と音が鳴った。中のターンテーブルが回転を始め、外にはハンバーグと白いご飯が温まるまであと一分かかるとデジタルの数字で表示された。

 目の前の男はなおも道理の通らぬ言葉を呟き続けていた。「やっぱりハンバーグが好きなんじゃないか」

 私は電子レンジの残り時間を注視していた。あと四十秒。
 お盆と、飲み物と、お箸を用意した。私のその動作を男のぎょろぎょろとした目玉が見つめていた。警察は早くこの不審者を取り締まってくれよ、と思った。しかし警察が現場に急行してくる気配はなかった。私の携帯電話は部屋にあった。
 トラブルが起きているとしても、私はどうしても食事をとる必要があるし、そのためには台所を訪れ、電子レンジで温めなければならない。これは決まっていることなのだ。抵抗するだけ無駄だ。変えようがない事柄を変えようとしても苦しみが増すだけだ。仕方がないので考え事を始める。

 かつて私には父親がいた。彼は親ではなかったし、味方でもなかったし、まともなコミュニケーションが取れる相手でもなかった。ただ人間が新たに誕生するためには父親と母親が必要であり、その意味において私にはかつて父親がいた。
 彼は少しでも自分にとって都合が悪い出来事が起きるとすべて私のせいにして怒鳴り、都合の悪い出来事がないときは私の粗探しをして怒鳴り、そのくせ母には良い子だと褒められたい小学生のようにひたすら媚びまくる人物だった。
 その媚びを、母は褒め言葉として受けとっていた。しかしそれはあくまで媚びているだけにすぎず、真っ当な称賛の意味はほとんど含まれていなかった。彼は彼自身を認めてほしくて言葉を発しているのであり、母のことを真面目に見ているわけでもなければ、理解しようとしているわけでもなかった。そんな汚物ですら求めてしまう母もまた別の意味で病的な人物だった。
 彼の言葉には純粋な称賛の意がない代わりに、母の人格を否定するようなニュアンスが混入していた。自分の底の浅いお世辞で行動をコントロールできるという見下し、そしてさらに自分はその意図を気づかれぬよう隠すことができるという驕り、お前は俺に奉仕して当然の人間だとする傲慢さ。つまるところ、彼の頭の中は身勝手な自身の都合と執着で埋め尽くされていたのだった。

 ピーッ、ピーッ、という音が近くで鳴った。どうやら電子レンジの温めが完了したらしい。蓋を開くと、ジューシーな肉汁の匂いが温められた空気に乗ってこちらへ漂ってくる。私はハンバーグと白いご飯が載ったお皿をお盆の上に置き、それを持って二階の自室へと向かう。
 男は相変わらずこちらを見ていた。よく見ると、まるでこの家の住人であるかのような気の抜けた淡い色の部屋着を着ていた。その下には出過ぎた腹が窮屈そうに存在を主張していた。しかしそれは私の感興を呼ぶものではなかった。男の脇を抜け、廊下をただ進んだ。
 軋む階段の六段目に足をかけたあたりで、男が大声でわめいた。「母さん! みゆきがハンバーグを持って上がったぞ! 好物だから嬉しいって!」

 ……なに見当はずれなことを一人で言ってるのだろう。この男は。

 そういえば、前にもこんな出来事があった気がする。興味が無いので忘れていたけど。

 ……まあいいや。私は何も間違っていない。これで良いのだ。全てはうまく回っている。多くを求めても仕方がない。幸福になるためには、欲さないのが重要なのだ。

 私は足早に自室へと戻り、扉にしっかりと鍵をかけた。


(終)


【これまでに書いた短編小説】
ベスト・フレンド・エンド(危うい自分と親友との別れ)
白木屋のフリースタイル・ダンジョン(ラップと暗い青春時代)
空絶(意味深な精神世界、初期の作品のリメイク)

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