見出し画像

写真展『まなざし』 を終えて

あらためて、写真展『まなざし』お越しくださったみなさま、気にかけてくださったみなさま、ありがとうございました。

hibiさんの常連のみなさまはもちろん、地元愛知から、そして大阪、東京、北海道に至るまで、全国津々浦々から多くの方々が駆けつけてくださったこと、そしてあたたかい言葉をくださったこと。いまでもまだ胸がいっぱいです。本当にありがとうございます。

そして今回、二週間と少しお世話になったPhotolabo hibiさん。(hibiさんへの想いはInstagram の投稿をご覧いただければと思います。)特に店主のえつこさんには準備段階から約半年間、何度も話を聞いていただき、結果最良の形で展示させていただくことができました。重ねて感謝致します。

きょうは今回の写真展に対しての想い、それからわたしの写真を撮るという行為に対する気持ちなんかを綴りたいとおもいます。今のわたしの現在地とおもっていただければ幸いです。

私が写真を日常的に撮るようになった原点は祖父にある。記憶の中の祖父はいつでもどこへゆくにも、自宅の中でさえカメラを持っていた。祖父はとてもマメで厳しい人で。だけど、本当に愛にまみれた人だった。祖父は、撮った写真はフィルムだろうがデジタルだろうがすべてプリントし、アルバムに貼り付け、その隣には写真を撮った日付とその日の出来事、それについて思ったことなど必ず一言添えてファイリングしていた。お誕生日には孫であるわたしたち三兄弟に必ず手書きのメッセージカードやお手紙を送ってくれていた。メッセージカードは丸善や百貨店に行かないと手に入らないような、仕掛けの凝ったものや手の込んだもの、海外風のおしゃれなデザインのものなどセンスのいいカードばかりだった。(おそらくカードを手に入れるだけのために街まで行ってくれていた)そんな祖父の遺してくれた写真や直筆の手紙、メッセージカードに、わたしは今でも救われている。

将来について悩んだ時、家族や友人、上司との関係に苦しんだ夜、どうしようもならない不条理に耐えられなくなった日。祖父の写真と、手書きの文字をみれば、大粒の涙と共に弱さは流れ落ちて、強くなれる。しっかり生きるよ、と思う。祖父にはもう手は届かないし、肉体のあたたかさを感じることもできないけれど、撮ってくれた写真や綴ってくれた言葉には、今でもまだ魂が宿っている気がする。「こんな写真を撮りたい、言葉を書きたい。」祖父の遺してくれた写真が、手紙が、わたしの写真や物を書くことへのモチベーションだ。


今回写真展をするにあたってパートナーである逸見くんとあらためてお互いに撮り溜めた何百枚もの写真を見返した。その中から選定に選定を繰り返し、それらを大きくプリントし、二週間展示した。全てが終わった時、これは二十年後、自分を救ってくれる、そう確信した。

逸見くんの第一印象は、孤独を知っている優しい人だなぁというものだった。齢三十五にして、人生や人の汚いところをあらかた知ってしまっていて、それでも人間に希望を持とうと諦めていない人。

一方、わたしはいつだって希望を持てなくて、絶望して、大人になったいまでも世界に飲み込まれそうになる。

だから逸見くんとは、出会った時から、一生分かりあえない (私が分かることもできないし、逸見くんに分かってもらうこともない) だろうなぁとおもっている。

だけど面白いことにそれに不安を感じたことは一度もない。分かり合えないからこそわたしたちはいつだって想像力をめいっぱい働かせているからだ。

あなたは何に苦しみを感じるのか、何に喜びを感じるのか、何に豊かさを見出すのか。それがじぶんと類似してたならハイタッチをするし、かけ離れてたらそれってどんな感じなの?と面白がる。逸見くんとわたしの関係はそんな関係。

展示をはじめるにあたって、店主のえつこさんに一番に伝えていたのは「ただのイチャイチャ写真で終わりたくない」ということだった。私たちは一般的にはいわゆる「恋人」という関係にあるけど、精神的には家族であり、当たり前に他人でもある。そんな私たちの嘘偽りないありのままの関係性を、心のもようを、陽も陰も偽りなく展示したかった。それはわたしたちがいまともに生きている、という証だから。

在廊中、「こんな相手がいて羨ましいです」とおっしゃっていただくことが多かった。本当に恵まれているとおもう。大切な人のありのままを撮り続け、さらに展示までさせてくれるなんて本当に恵まれている。ただ全ての人にそんな存在ってあるんじゃないかなぁと思っている。それは恋人やパートナーでなくてもいい。もっと言えば人間である必要もない。家族、ペット、友だち、大切にしているぬいぐるみ、本、好きな景色、場所。じぶんの何かを大切に思う気持ち、信頼関係や愛に、夫婦、恋人、パートナー、所有物なんて肩書きやかたちはいらないとおもう。

だからもしそういうものがある人には嘘偽りなく、また恐れることなく向き合って欲しい、まなざしを向け続けて欲しい、と思う。それは必ず、二十年後、あなたを救うから。

実際、いまふたりで撮り続けている写真、綴っている言葉は、祖父が遺してくれた写真と同様、間違いなく二十年後、わたしを、わたしたちを救うと胸を張っていえる。例え恋人という関係でなくなっても、だ。

だからこれからもわたしは嘘偽りない、飾らない写真をたくさん撮ってゆきたい。どこまでも真っ直ぐに、丁寧に言葉を綴って生きてゆきたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?