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2024年4月13日

土曜日だが急ぎ対応しておかなければならない仕事があり、バスに乗って職場に向かう。無事に仕事を終わらせ、ついでに個人的な作業を始める。が、なかなか集中力がでないので、諦めて遊ぶことにした。

何をしようかなとネットであれこれ検索してみる。職場近くのミニシアターでタジキスタンの映画を上映している。画面上の美しいキービジュアルを眺める。馴染みない世界を下敷きに詩的な台詞の応酬があり、滲む印象からコンテクストを汲み取ることを要求される作品なのかなと想像する。そんな体力はないなあと今日の選択肢から消す。

この上半期は見たい展示が珍しくたくさんある。見たいリストの中にあった、都写美の木村伊兵衛展を見に行くことにした。向かう電車の中で、今更ながら高瀬隼子の芥川賞受賞作を読む。かわいらしい装丁とは裏腹に、現代社会を生きる人間の冷たい裏の一面をひたすら描写するなかなか陰湿な作品だったので、後半は恐ろしいスピードで読み飛ばす。今日はこんな意地の悪い世界観に付き合いたい気分ではない。と思いながらも面白くてそのまま読了。

都写美では3つの企画展を見る。最初に見た〈時間旅行〉という展示で、思いがけない再会をすることになる。

今から100年前の1924年に撮られた白黒写真から、今日に至るまでの所蔵品で構成された展示。特にピクトリアリズム(絵画主義)のわざとぼんやりと撮られた写真群に目が留まる。また、大正時代の終わりがけに撮られた東京の風景たちを、今の東京を思い浮かべながら眺められることも興味深かった。すっかり東京に暮らしている。展示を見進めていくと、最後の展示室に岩根愛さんの作品が展示されていた。映像作品なのか、カーテンをくぐると何度も何度も見た溶岩の映像が広がる。はっとする。まさか再びこれを見るとは。

2021年の冬、マネジメントしていたとある展示で同じ作品を展示した。展示期間中は時折監視員もしながらその作品を何十回も見た。はずだった。同じ作品を3年後に見る。そのとき私は全く見ていなかったのだ。映像が、言葉が、今ここにいる私の網膜にまっすぐに入ってくる。今の私が必要としているものが、この作品に詰まっていたのだと知る。

過去に出会っていた答えを未来の自分が見つける。

そんな言葉を、同じく当時出展してくださっていた高山明さんが言っていた。その言葉が頭の中でリフレインする。3年越しに当時のあらゆることが瞬時に鮮明に思い出される。忙殺の日々によって全てを忘れてしまったと思っていた。展示室のひんやりした暗さ、暖房で乾燥した人工的な空気、点滅し交じり合う映像の色、作品を照らし出すダクトレールの照明たち、しんと立つむき出しの仮設壁。

岩根さんの映像で語られる、ハワイに渡った日系移民の末裔の言葉が強く胸を打つ。胸が痛い今は、迫る変化の必要性を示している。まさに生まれ変わる最中にいるのだということ。諸行無常。あらゆることが変わりゆくということは、決して悲しい意味ではない。子供の成長のように、一瞬として同じことなどないという儚い美しさや新しい希望を表す言葉であるということ。個人の意思ではどうしようもない巨大なうねりに翻弄された人たちが、今を確かに生きている。それでも私たちは生きるしかない。諦めではなく前を向く。そのしなやかさに深い感動がこみ上げる。

3年前に出会った作品に、3年後の私がようやく辿り着く。

いい作品というのは、誰かの評や作品性といわれる作品そのものの強度だけで決まるのではない。作品が触媒となり、自分でも気づけなかった内面の奥底が呼応し引き出されてしまうとき、それが私にとっての「いい作品」になる。今の自分が出会いたい作品に出会う瞬間は、決して自分では選べない。ある日ふと出会ってしまうその一瞬のざわめきが、また私を展示会場へと運んでいく。


わざとソフトフォーカスする手法で、「記録としての写真」から「絵画としての写真」を模索したピクトリアリズム。壊れて焦点が合わないスマホカメラでピクトリアリズムの作品を撮る。


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