見出し画像

この国で給料がなかなか上がらない理由〜給料が安いと、社員は仕事を好きになる〜

「求人への応募、届いてませんね」
「来てないねぇ。今日もゼロか……」

新型コロナウィルスによる感染症が街から人を追い出してしまうよりもちょっと前、そのころ私が在籍していた会社は国内外からの観光客向けの商売が好調だった。複数ある店舗をスムーズに運営するには従業員数が不足ぎみで、パート・アルバイト・フルタイムの別を問わず、1日でも早く増員する必要に迫られていた。

人を採用する方法にはいろいろあるが、費用対効果を考えればやはりネットの活用が本命だ。求人サイトや自社のホームページに求人広告を掲載し、面接を希望する求職者からのエントリーを待つのである。検索するとヒットするようなオモテのページとは別に管理画面があって、郵便受けを開けるような感覚で採用担当者は毎日そこをのぞき込むのだが、1件もエントリーがなければ「来てないねぇ」ということで冒頭のような会話が発生する。そんな状況がもう半月近くも続いていた。

「なんで応募来ないのかなぁ。ここまで続くとおかしくない?」
「調べてみたんですけど、時給制のパートは居酒屋とかファーストフードが給料を上げてきていて、競合し始めた気配があるんですよ。以前は時給に100円以上の差があったので優位だったんですけど、今の水準だと、時間とか休日の都合がつけやすい飲食系の働きやすさがメリットに感じられるらしくて」
「なるほど。でもウチの店舗運営だとそんなに細切れのシフト体系にできないしなあ。外国語での接客もこれから強化したいし。良い人材からのエントリーを増やすには、もはや給料を上げるしかないかぁ」

私は自社と同業他社の給与水準に加え、競合する外食産業など他業種まで含めた求人マーケットの状況をまとめて社長に説明し、給料の低さが採用不調の原因だとして、求人広告に掲載する時給や初任給を上げる提案を行った。当時は売上や利益などの業績も好調に推移していたので、人件費は増やすことになっても、ここで会社の成長を止めてしまわないことが大事、というロジックで説得できると思っていた、のだが。

社長の反応が予想外だった。

「給料アップねぇ……高い給料に釣られて来るような社員は雇いたくないんだよ。会社や仕事の中身が気に入っての応募ではないだろうし、他に給料が高い仕事を見つけたらすぐに辞めてしまいそうだし」
「そもそも、カネ目当てで動くヤツなんて性格も歪んでて、他の社員ともうまくやれないに違いないよ。他社より安い給料でも気持ちよく働く人を探してくれないか」

高い給料に釣られて応募してきた社員の性格は歪んでいる……? 社長、それはさすがに思い込みがひどすぎませんか、と反論しかけたけれど、社長が直感で動きがちで自説をなかなか曲げない人物だったことを思い出した。最初に見せた資料のキレ味が悪かったんだろう、と自分に言い聞かせ、その日はいったん引き下がることにした。

その後の状況はご存知の通り。感染症が世界を席巻して緊急事態宣言による営業自粛、それに続く訪日外国人の激減などによって、給料アップだの増員だのを言っている場合ではなくなってしまった。
そんな中でも、社長の言葉は私の頭の中に残り続けた。

給与水準を上げたら応募してくるような人は、会社に迎えるべきでない人物なのだろうか? 本当に?

高い給料に釣られてくるような人の性格は歪んでいる、という仮説の正しさはよくわからないが、安い給料で働き続けた人はその仕事になじんでくる、ということなら、実は当たっているかもしれない。

アメリカの社会心理学者レオン・フェスティンガーとメリル・カールスミスが「1ドルの報酬」と呼ばれる実験の結果を示す論文を1959年に発表している。

実験内容は、お盆のうえに物を置いては取り除くといったまったく無意味で退屈な単純作業を1時間ほど続けさせたあと、次に同じ作業をする人に対して「この作業はとても面白いし、楽しいよ」と伝えるよう命じ、その報酬として1ドルまたは20ドルを渡し「あなた自身はこの作業をどう感じましたか?面白かったですか?」という質問を行うというもの。

ふつうに考えると、1ドルよりも20ドルの報酬をもらった人のほうが「面白かった」と回答しそうなものだが、実際には1ドルをもらった人のほうが「面白かった」と答える割合が高かったそうだ。

フェスティンガーたちはこの結果を、
「20ドルを受け取ったグループでは、面白くない作業を面白いと強制的に言わされたことが20ドルの報酬によって報われた」
「1ドルを受け取ったグループでは十分に報われず、退屈な作業を『面白かったと思い込む』ことで自ら解決した」
と分析し、人間の心には報われない辛い気持ちや不安を肯定しようとする機能が備わっていると指摘した。

つまり、安い給料でがんばり続ける人の心は、辛くて報われない仕事でもそれを好きと感じるように動くが、給料を上げたり最初から高い給料で雇われたりしてしまうとそちらで報われてしまうから、会社や仕事を嫌いなまま働いてしまう、といったあたりだろうか。

この国で、給料がなかなか上がらないと言われてもうずいぶん経つ。
経営者と呼ばれる人たちに給料を上げない理由を尋ねると
「近隣の国と比べてもう十分に高い」
「業績が上向いてこないなか、そう簡単に人件費を増やすわけにはいかない」
などといろんな理由が挙がる。

もしそこに、私の提案を却下した社長のような「安い給料でも気持ちよく働く社員こそがよい社員」という本音が隠れているとしたら、給料を上げるのはいよいよ困難かもしれない。経営者たちが、働く人の心の動きを敏感に感じ取って「給料を上げるより、上げないほうがむしろ会社や職場に貢献する気持ちが高まるじゃないか」と悟ってしまっているのかもしれないからだ。

あなたの給料は安いですか?
そして、あなたは会社や仕事が好きですか?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?