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DAY15.  昼下がりの虚実 


 17キロ弱。今度年中さんになるらしい姪っ子と同じくらいの重みを湛えた彼女は、長い毛並みに包まれたふかふかの体を揺らして、これ見よがしにぶんぶんとしっぽを振っている。

 その黒目がちな瞳には、一切の迷いや疑う心も影を潜めない。まっすぐにこちらを見上げる誇らしげな顔が、2階へついてこいと言っていた。

「んんん? どしたー??」

 目的はわかっている。私は彼女の視線に屈してようやく重い腰を上げ、階段を上がった。トットットットッと軽快についてきた足音は、目的の場所まで私を誘ったところでスチャッと威儀を正す。そして、そわそわとした上目遣い。

「ああっ!」

 私は、大げさに気づいてみせる。

「えらーーい! ちゃんとトイレにおしっこしてるじゃーん!」

 言っていて自分でも可笑しいのだけれど。うちの犬はトイレにおしっこをしただけで、こんなにも褒められ、このあとおやつまでいただけてしまうのだ。

 「家人の目の届く範囲」では一切悪さをしないよう育った彼女は、成犬になってお漏らしをするようになった。獣医によれば、避妊手術の後遺症らしい。

 尿意を感じにくい彼女に早めのトイレを済ますよう促すこの作戦は、おやつを目当てに嬉々としてタスクをこなす彼女とウインウインの関係で成り立っている。

 私は犬のトイレ掃除を手早く片付け、ついでに猫のトイレもチェックして砂の中から糞尿をかき出した。一つの袋にまとめてゴミ箱に捨てる。

 愛用しているのは、ニューヨークのブリックリン発らしいブランドのおむつポット。見た目で買ったが、いつか本来の用途に使うことを夢見ていなかったかと言えば、嘘だ。もう2年ほど前、ちょうど3つめのクリニックに転院して、不妊治療を体外受精にステップアップさせた頃に。

 いつものルーティンをこなす私を眺めていた彼女は、部屋の小型冷蔵庫を開けると、はっとして一段とその視線に熱を込める。しかし冷蔵庫の上には、もう伸びをするライバルがスタンバイしていた。

「ニャホホホホォ~ン……」

 彼は遠慮なく、哀愁を込めて鳴いてみせる。猫がこんなふうにニャオニャオと訴えかけるのは、人間に対してだけらしい。特にオス猫は基本的に一匹で行動し、ほかの猫とつるんだりすることもないという。 

 彼は相手が私だから、こうして甘えた声を出したりするのだ。その顔は「おい下僕、さっさと例のブツを出せ」とでも言わんばかりの尊大さだけど。

 食べるのが遅すぎる彼には、先に小さなささみジャーキーを1本手渡してやる。しかし、やきもきする彼女のほうをふり返ってボウロを4粒ほど差し出すと、バクッと一瞬で食べ終えてしまった。

 むちゃむちゃと時間をかけてジャーキーを食べるライバルの姿を、遠巻きに神妙な顔で見守る彼女。その心乱されっぷりに思わず笑った。本当に、敵わないよなぁと思う。その無垢さに。

 つい、5分ほど前。私はリビングのソファで悲鳴を上げていたのだ。寒さは沁みるけれど天気の好い、平和な土曜の昼下がりに。

   *

「え、うそ……!」

 スマホを握りしめてみるみる蒼白になる私に、隣でテレビを観ていた夫は何かを察した。私自身、そのメールを開く前に、通知をちらりと見ただけで悟ってしまったのだ。順調なら、まだ来るはずのないクリニックからのお知らせメールだった。

「なんで……もう来るの? 次は来週来るって言ってたのに。開けたくない……」

 嫌だ、嫌だとぶつぶつ言う私の肩を抱き寄せて、夫は言った。

「仕方ないでしょう?」

 少しおどけたようにそう言って、私の手の中にある画面を勢いよくポンとクリックする。メールが開かれ、とうとう私はあきらめて、その文面にあるURLをクリックした。パスワードを打ち込むと、「発育停止」「培養中止」の文字が刃の様な鋭さで目に飛び込んでくる。

 2日前にようやく採卵できた、たった1つの私の卵子。ちゃんと成熟もしていたし、クリニックに持ち込んだ夫の精子は、検査数値的に言っても前回より格段に良かった。とりうる中で一番確実な顕微授精、元気な精子を1つ選んで直接卵子に注入する方法で、正常に受精したというお知らせメールが昨日届いたばかりだというのに。

 高低差が酷すぎる。耳がキーンなってても気づかないくらい、血の気が引いた。もともと、5日目の胚盤胞になるまで受精卵を培養できるかどうかが一つの壁だったのだが。その結果が出るのをドキドキして待つ猶予さえ与えてもらえずに、終わってしまった。

「はぁ……」

 久しぶりに夫の前で心からのため息をもらすと、ポンポンと頭を叩かれる。夫は冗談めかして言った。

「俺がオミクロンに感染してたから、駄目だったのかもよ?」

 コロナウイルスのオミクロン株は、2ケタそこそこだった年明けから一気に新規感染者数を増やし、すでに4000人を超えていた。症状がない人が多い上に、これまでの変異株で最悪くらい感染しやすいというのだからタチが悪い。

 でも、本当に夫が感染していたら洒落にならない。通っているクリニックにも大迷惑をかけるし、そんなわけないでしょう、不謹慎すぎるわといろいろツッコミを入れたかったけれど。

 何か言葉を紡ごうとすると、それと一緒に涙や嗚咽まであふれ出てきそうで、息をのむ。

「……なんでよ」

 それだけやっと言って、苦笑いしてみせた。本当は夫に、こう言いたかったのだ。

「ごめんね……」

 心の中でつぶやいただけで、目が潤んでしまって。その言葉もろともごくりとのみ込んだ。

   *

 不妊の原因は、男女半々にあるーー最近、不妊界隈ではしつこいくらいによく聞く言葉だが、世間一般では意外と浸透していないらしい。原因は完全に女性側のこともあれば、男性側のこともあるし、双方にあることも多い。

 でも、何が原因だろうと、どちらが悪いという問題ではない気がする。だって、ふたりが出会って惹かれ合い、そのふたりこそ一緒にいるべき存在なのだと確信したとき。もうその時点で、不妊治療は運命づいているのだから。

 ただ、そんなふうに理性的には割り切れないところで、私は謝らずにいられないのだった。彼の子どもを今回も宿すことができなかった、この不甲斐なさに。

 わが家は、ざっくり言えば「原因不明」の不妊だった。夫と私それぞれ、精液検査や血液検査では数値的に悪い部分もある。でも、結局はどれも決定的な原因ではなく、ただ「加齢」というものだけがゆるぎない。 

 私もまさか、40を超えてここまで治療を続けるなんて夢にも思わなかったのだ。34歳で結婚し、35歳で初めて不妊治療クリニックへ行き出したときには。

「好き勝手して、仕事を優先して、結婚したのが遅すぎたんでしょう」

 世の中には、そんなふうに断じる人間がいるらしい。彼らにとっては、できるだけ早く結婚をして若い母親になることが、子どもに対する正義なんだそうだ。

 歳をとった母親は子どもが可哀想、高齢出産は障害児が多いだなんて話を、毎回持ち出してくる。そこでは、母体も危険に晒されるのだという話はあまり議題に上がらない。

 ただ、私の正義は正直そこにはなかった。20代の頃から。いや、自分が子どもの頃から。私は、母親もそれなりに人生経験を積んで、自分自身を確立していてほしいと願う。できたら何か夢くらい持って、自分の人生に納得して生きていてほしい。

 そんな理想の女性像に一歩でも近づきたくて、生きてきた。ただ、それだけだ。別にやりたくて高齢出産なんて目指しているわけじゃないし、仕事を優先して結婚を遅らせたわけでもない。たまたま、ビビッときたのがだいぶ遅かった。

 なんにも悪いことしてないのに、なんでこんな目に……とは、まったく思わない。悪いことなんて、いくらでもしてきた。そもそも、誰が決めた良いこと悪いこと? それが原因だと言うのなら、上等だ。

 生物学的な話をするなら、人間なんてすでに自然の摂理とはかけ離れた社会の中で存在している。私も平安時代ならとっくに死んでるし、江戸時代でもそろそろ死に頃だ。それが現代の感じでいくと、まだ倍以上、下手したら100歳を超えて余裕で生きる可能性もあるらしい。

 高度不妊治療。それ自体がまだ過渡期すぎて、賛否両論あるのは当たり前でしかなく。この4月から予定されている保険適用に文句がある人が大勢いても、当然のことで。

 ともあれ、私たち夫婦はそれとはほとんど関係のないところで、自分たちが後悔しない選択を模索している。保険適用される頃には、もう対象外の年齢になるのだ。

 なにかと他人ごとで攻撃してくる自称言論人らには、とりあえずこう伝えたい――もう少しだけ、泳がせといてくれますか。あなたに迷惑をかけるようなことは、恐らくないので。

 もし、私たち夫婦のところに子どもが生まれてきてくれたら。夫は、「勉強のことは特に心配していない」という。

「だって、たぶん勉強はできるでしょ。何か本当に熱中できるものを見つけられれば。何かを極められる人は、みんな頭いいもん」

 確かに、と思う。だいたいこれからの時代、「勉強」のカテゴリー自体が、どこからどこまでを言うのかあいまいになってきそうだ。プログラミングは勉強? だったら、デザインは……? うちの子がどの「勉強」に向かっていくのか、楽しみすぎる。

「でも、まずはそれ見つけるのが大変だから。絵を描くにしても音楽聴くにしても、できるだけいろんなところへ連れてってあげたいよね。『そんなの見たらバカになる!』って俺が小さいころ禁止されたマンガとかテレビも、全部見せてあげたいよ」

 そんな感じで。たぶんうちに来てくれたら、きっと楽しいのに。

   *

「お昼、俺がラーメンつくるからね」

 リビングに戻ると、唐突に夫が言った。そういえばこの前、どこだかのラーメンの箱が4食分もクール便で届いて、冷凍庫が占拠されていたのを思い出す。

「あら」

「あれね、なんか山形で伝説のラーメンて言われてるらしいよ!?」

 日本各地に伝説ありすぎる気もするけど。なんとも夫らしい励まし方に、放っておくとむくむく膨らんできそうな毒気を抜かれた。

「じゃあ、私はその間にさくっと散歩でもして来ようかなぁ……」

 サンポという言葉を聞き、耳をピッと立ててふり返る彼女と目が合う。

「お願いしまーす!」

 ガサゴソと野菜室を探り、物色し始めた夫が背中越しに言った。そういえば、もう長ネギはなかったかもしれない。小ネギならあったかな。夫のつくる白髪ねぎは、私が切るよりも断然ていねいで美味しいのに、残念だ。

 全身からサンポへの高まる期待がもれ出ている彼女を追って、玄関に向かった。太陽もすっかり真上まで昇ってしまっている。真夏ならもう暑くて出られない頃だ。冬は気を抜くと心の底まで凍てつきそうになるけれど、散歩に出るのに焦らなくていいのはありがたい。

 いつもの角を曲がると。川べりにひらけた空に、間抜けな昼月がぽかんと浮かんでいた。光り輝くでもなく、満月になりきってもいない、中途半端な形の月が。

 ひとけのない河川敷へ降り立つ。彼女が前足をカッと八の字に踏みしめて目をらんらんとさせた。

「よし、走るか!」

 私は半分こけそうになりながらも、リード先の彼女と伴走するように思い切りダッシュをした。大人になってこんなに死にものぐるいで走る機会、きっと彼女がいなければなかっただろう。

 もしもこの先、子どもが生まれたら。このアラフォーの極限ダッシュの何億倍もエネルギーを使う大仕事が、信じられないくらい待っているのだろう。完全にこけて、血だらけになるくらいは、どうぞどうぞ。それでも私たちは、最後の希望に賭けたい所存です。


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