DAY0.  ノストラダムスの大予言


 少し雲がかった夜空。そこには、すうっと線を引いたような眉月が浮かんでいた。ふとすると雲に隠れてしまう、美しくもはかない光。あそこからだんだん満ちていくのか、それとも月のない闇夜に向かっているのか、天文学の知識がない私にはわからない。

 明日は「判定日」だ。ここまでたどりついた周期は数えるほどしかないが、私はいつも最後の審判が下るような気分になった。ノストラダムスの大予言じゃないけれども。

 夫には言わないものの、「これで最後」と思う。それは、「最後にしたい」のか「最後にしなきゃ」なのか、「最後になるかもしれない」なのか。終わりのない挑戦は、いつか自分たちで終えなければならない。「努力は必ず報われる」という言葉がこれほどむなしく響く挑戦が、ほかにあるだろうか。 

 1999年、7の月。よく考えたらちょうど今も7月だけれど、あの頃は「そのときがきたら私は二十歳で死ぬのかもしれない」と、なかば本気で思っていた。当時ノストラダムスの名は世界中に轟いていて、カルト宗教に走った人、「その日が来る前に」と自ら命を絶った人までいたそうだ。

 私にはそこまでの思い入れはなく、ただ漠然と「20歳までの人生」をイメージする10代だった。「20歳までしか生きられないのなら、それもまたいい。自分の肉体がまだ若いうちにこの世を去ってしまいたいものだ」とすら考えていた。

 もしかするとそれが尾を引いたのか、あの大予言が大ハズレしたあと、自分が想像したものと現実の自分の人生は大きく剥離していったように思う。

 あっけなく20歳を超え、いつの間にか30代に突入した。「このまま白髪交じりの花嫁になるとか、どうなの」と自嘲ぎみに軽口をたたいていたが、実際に34歳で結婚したときにはもう放置できないほど白髪が混じり始めていた。

 もともと若白髪の血筋なのだから仕方がない。その頃から今に至るまで、できるだけきれいにカラーリングを施しているのはせめてもの抗いだ。20歳で死ぬどころか、その倍の40歳もすでに超えている。

 まったくの計画外だった「晩婚」。でも、それはそれでしあわせな日々だった。指折り数えてみれば、夫とはすでに8年の月日をともに過ごしてきたことになる。

 夫とはもちろん、喧嘩もする。本当にどうでもいい諍いばかりなのだが、そのたびにどうしようもなく絶望的な気持ちになる。家庭という共同体の半分を担う夫との意見が割れるというのは、世界がまっぷたつに割れて冷戦状態に陥るようなものだ。しかも、誰かほかに味方がいるわけでもない。

 新婚当初、「トイレの棚をどうやって壁につけるか」で大もめにもめたことがある。ホームセンターで1枚の板とL字型の棚受けを2つ、それから2本のチェーンを買ってきて、あとは取り付けるだけだった。

 チェーンを買ったのは、「壁からも吊って棚への荷重を支えよう」と夫が機転を利かせたものだ。L字型の棚受けは、通常なら板の下部に取り付けるものだろう。

 でもそのときの私は、チェーンで板の手前と壁を斜めにつなげて吊るのなら、L字型は板の上部に取り付けて、壁との間を直角に固定したほうがいいのではないかと言い出したのである。

 今思えば、本当にどうでもいいし、どちらでも棚は付く。というか、本来は夫が主張した下部への取り付けが定石だった。

 トイレットペーパーくらいしかのせないその棚について議論は白熱し、収まりがつかなくなって、一日、二日、口を利かなかった。やけに尾を引く喧嘩になったが、結局夫はブチ切れながらもL字型を板の上部に取り付けてくれたのだった。

 結婚するまでは付き合った男と喧嘩したことなど一度もなかったのに、不思議なものだ。でも、夫との喧嘩は基本的に寝たら忘れることにしている。なんだかんだ仲良くやっているのも、そのお陰だろう。

 世間で言うところの適齢期すぎ、20代の後半あたりからは、実家の母に電話をするたびに「誰かいないの」とぼやかれた。

 まったく相手がいないでもなかったが、もしもあの頃、どこかのタイミングで勢いづいて誰かと結婚していたとしたら、今のような安穏とした日々は待っていなかったと思う。

 大学を卒業したら定職に就き、適齢期に結婚をし、子どもを産む。母はそれを至極当然のことと思い、女のしあわせそのものなのだと信じて疑わないようだった。

 しかしその娘は、しぶしぶ大学は卒業したものの、大手企業に入るでもなく、小さな会社を転々としたあとに、フリーランスで仕事を得る生活を始める。そのうえなかなか結婚もしない。

 母は相当やきもきしただろうが、人生はなるようにしかならないし、自分ではそれなりにこの人生を気に入っている。

 ただ、「晩婚」がおのずともたらすもの。それは「晩産」だ。いまどき、結婚したら誰もが子を持つような時代でもないけれど、もしそれを望むなら、当然そういうことになる。

 適齢期を逃す「晩婚」は、それぞれの夫婦の自由な選択だ。でも適齢期を逃した「晩産」はといえば、そう気楽なものでもない。

 子どもは欲しかった。結構、昔から。「素敵なお嫁さん」にはあまり憧れがなかったけれど、「素敵なお母さん」にはずっとどこかで憧れていた。

 なぜだろう。

 女はなぜ子どもを産むのか。自分はなぜ産みたいのか。それは、これまでも自問自答してきた。答えはまだ出ていない。

 産んでもいないのだから、わかるはずがないだろう。そこで思考が止まってしまう。でも、産むことを目指すのなら、そこに理由はあってしかるべきではないのか。そんなふうにも思うが、そうして7年も過ぎると、すべては絵空事のような気がしてくる。

 20代の頃は、「いつか自分の子どもに誇れるような仕事がしたい」というのが、現状よりも上を目指す一番のモチベーションだった。その仕事が自分の子どもに格好いいと思われるかどうか。どこかの神様にすがるより、ずっと自分を律することができた。

 しかし今では、その威光も揺らぎつつある。本当に自分が誇れるときが、はたして来るのだろうか。

 白髪を隠し、多少は筋トレをし、食にも気をつけたりして、見た目を少しばかり若く取り繕っていたとしても。「晩産」の事実はチャラにならない。

 昔、「羊水が腐る」だのという言説が炎上していたけれど。さすがに羊水は腐らなくても、体は確かに年齢を重ね、子を宿すエネルギーに満ち満ちているわけではないのを自分でも感じる。

 いわゆる不妊治療のクリニックに通い始めたのは、結婚して1年を過ぎた頃だ。けっしてその判断は遅くなかったと思う。そもそもの結婚が遅かっただけだ。

 クリニックでは、自分の体の衰えをいやおうなく数値でつきつけられる。最初こそ毎回、期待に胸ふくらませて通院したものだが、引っ越しを機に転院し、さらに成果の高そうな大きいクリニックへと転院した頃には、できるだけ期待をしない、一喜一憂しないようにするという自衛手段も身に沁みついていた。

 「ねえ、どうなの最近は?」と、電話で母が暗に子どもについて聞いてくるのは、なかなかつらいものがあった。通院していることなど一切伝えずに、「そうねえ」などとはぐらかすこちらも悪いのだが、「努力しないと」と言われたときには、さすがに大きめのため息が出た。

 そんなせっつきも、40歳を過ぎると自然となくなっていった。それもまた哀しいものがある。

 40代にもなれば、地元の同級生たちには当然のように何人も子どもがいて、ほとんどSNS上でしか交流していなくても、ちょっと見ないうちにどんどん大きくなっている。まだ幼稚園という子も少なくないが、中学生も、高校生も、なかには成人間近の子もいて、どこか別世界の話のようだ。

 身近で働く同世代には晩婚も多く、独身も珍しくない。それでも晩婚組はだいたい「お母さん」になっている。みんな仕事も両立させていて、大変ながらも日々いきいきとしている、ように見える。そちらもほとんどSNS上でしか知らない。

 一方で、結婚しても子どもを持たない選択をした友人も2人ほどいた。どちらも傍から見ていてとても格好よく、バリバリと働いて自分の道を突き進んでいる。その姿を見ているから、その選択もまたアリだなあと、余計にどっちつかずになっている気もする。

 正直私も、40歳を迎えるときにあきらめるつもりだった。それがずるずると、今日まできてしまっただけだ。

 何か決定的なものをつきつけられないことは、それもまた残酷だと思う。持病は特にない。そして医者が不妊の原因として容赦なく挙げる「加齢」も、決定的ではない。実際に50歳で子どもを産んだかの歌姫もいたくらいで、いくらでもお金がかけられるのなら、際限なく挑戦できてしまう。

 2021年7の月、もう何回目かは数えていない判定日。「40歳まで」「もう1年」「もう半年」「あともう少し……」と延ばしに延ばし、ここにきて、東京オリンピックを前に今までで最高の結果が出てきた。

 着床を、したのだという。



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