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なぜ『ゲーム性』の議論は忌避されるのか(前編)

ゲーム性の議論が忌避される最大の原因は、それが作品の批判に用いられることにあるでしょう。

特にRPGというジャンルに属す作品は「ゲーム性が低い」として頻繁に批判の対象になります。RPGを好んだり作ったりする側は、それぞれの好みについて(暗に)批判され不愉快な思いをしやすいといえます。

ゲームについて、建設的に発展を望み、語り合うことは楽しく有益なことのはずなのに、うまくいかないことが多い。これはとても残念なことです。

しかし、RPGのファンのように、文章を読み、考え、プレイヤーの意志を(ゲーム側に)うまく伝えられないことにある種の苛立ちを覚える人たちこそが、議論に向いています。文章を読まずにボタンを連打し、話がわからなくなったら「不親切だ」と言う人たちによる、ある種の"言論テロ"に屈してほしくないという思いが今回の記事の主な主旨です。

一方で、議論を避ける際に「ゲーム性」という言葉の定義が問題視されます。「ゲーム性とはなんなのかわからない」と。

しかし"○○性"という言葉はごく単純なもので、「人間性」なら他の動物とは異なる人間の特徴のこと。ゲーム性は映画や小説などとは異なるゲームの特徴として差し支えありません。

あるいはGameを「遊び」と訳して、遊び(=自由度)の幅を論じるのもありですし、スポーツなどの競技・試合も"Game"と呼ぶことを踏まえるのは当然です。そんなの百も承知でしょうし、これらの定義についてさほど誤解を生じることもないでしょう。

にもかかわらず。実際にはなにやら違う意味でのゲーム性が語られることがあり、議論が混乱することがあります。

ゲーム=コンピューターゲーム?

言葉としての「ゲーム性」を巡る混乱のその原因のひとつとして、「ゲームとは、コンピューターゲームのことである」と暗に言い替えていながらそれに気づかないことが挙げられます。

コンピューターゲーム以前からカードゲームやボードゲームのようなアナログのゲームが存在しますが、それらをゲームとして認識しない人もいるのです。彼らにとってのRPGの始祖は『ドラクエ』だったり、『Ultima』『Wizardry』だったり。テーブルトークRPGの存在を知らないか、逆に知っているからこそ「コンピューターゲームならではのものにすべき」という発想が首をもたげることもあるのでしょう。

「ゲーム性=コンピューターゲーム性」という人たちの中には、特にアクションゲームをその前提とする人たちもいます。育った環境の違いもあるかもしれません。例えば、ゲームセンターで遊べるものこそが「ゲームだった」という想いは、簡単に否定して良いものではありません。コンピューターゲームにおいて、RPGのような"静的なゲーム"は比較的遅れてやってきた移民のようなものだったとも言えるのですから。

その世代なら、逆に「トランプやスゴロクで遊んだことないの?」と思わなくもありません。しかし、それらのアナログゲームは紙などを使ってターン制で展開するものがほとんどなので、アクション要素を持たせることは困難。そもそも、前提として「ゲームとはコンピューターゲームのことで、そしてアクション要素こそが他にない特徴だ」と思っていれば、アナログゲームの多くを"ゲーム"として認識しないことはそれほど不思議なことではありません。

RPGはゲームにあらず?

そもそもコンピューターゲームの分野では「何をゲームに含まないか」という議論が繰り返されてきており、その前提は人によって異なります。

ゲームセンターには古くから麻雀などのアナログゲームを「コンピューターゲーム化」したものがありましたが、これもあくまで「ゲーム化されたもの(=コンピューターゲームとして生まれたものではない)」と見ることができます。同様に「コンピューターRPGは、テーブルトークRPGを"ゲーム化"したもの」と見れば、RPGを「ゲーム」に含まないという意見があっても大して不思議なことではありません。

「RPGはゲームにあらず」という意見を見聞きしたことはさすがにないのですが、言語化されていないだけで、潜在意識下にあっても不思議ではないということです。

実際には、アナログゲームをコンピューターゲーム化するのは、いまでも難しい側面があります。アナログゲームは人間ならではの曖昧さによって成立している部分が多くあり、それをコンピューターに任せるには(まだ)限界があるのは当然です。

そもそも、アイディアというものはアナログなものです。コンピューターゲームのためのゲーム性の議論だからといって、その前提をコンピューターゲームに限定してはいけません。

(つづく)


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