2020年 4月10日「となりで蠢くものたちの話」

蟲を見ない。

都会(それほど大都会ではないが)に越してからは本当に蟲を見る機会が減った。

ちなみに、“蟲”という字は“虫”の本来の姿だという。
漢字というのは、しばしば略字にされることがある。
本来の“蟲”という字は〈小さき生き物が寄り合う様〉を表していたという。

ともあれ、とにかく蟲を見る機会は、故郷にいた頃より随分と減ったのだ。

もちろん、今の住処の周りに居ないというわけではない。
都会と言えども、蟻や蜘蛛、羽虫もいる。
しかし、私の所感でいうとやはり少ない。
〈蟲〉よりは〈虫〉なのだ。

わたしの周りにいる人々に聞くと、それは寧ろ好ましいことだという。

なんたって、気味が悪いそうだ。

それはわかる。
わたしも蟲に対して寄り添う気持ちはあるものの、気持ち悪い者も多い。
害があるやつだって多いのだ。
ゴキブリなんてやつは鳥肌が立つ。

それでもやはり、蟲がいる生活は好きだ。

夏にはハンミョウを見つけて、蟲網を振るった。
洗濯物にはカブトムシやカナブンが付いていた。

雀蜂に追われることもあれば、家のビニールハウスに巣食った奴らを撃退したこともあった。
母が玄関先で刺された時には正直焦った。

タガメを捕まえたはいいが、世話を忘れて水ごと腐らせてしまった。

蛇は捕まえて振り回して、飽きたら捨てた。
もちろん、シマヘビだ。
何度も噛まれた。
マムシやヤマカガシには近づかなかった。
小学校に入って直ぐに、毒のある蛇とない蛇の見分け方を先生から教わったからだ。
頭が丸い奴は大丈夫。
頭が三角の奴には毒があると。

冬にはカメムシが家の中に犇(ひし)めく。
10や20ではない。
500から1000の数だ。
我が家では見かけた者がカメムシを灯油の入った瓶に入れて集めるというルールがあった。
ある年の冬、両親に協力を仰ぎ、冬が終わるまでに何匹カメムシが捕まるのか確かめたことがあった。
その数、実に830匹以上。
わたしは毎年それ以上の数のカメムシと宿を共にしていた。

彼らは、彼らの好むところで、好む時に蠢く。

わたし達の意図とは関係なく、ただ在るのみ。

今となっては懐かしく、好ましくもある。

わたしの故郷の家は森の深くにあって、冬から春に移ろう時に、彼らの力をまざまざと感じる。
彼らの起き抜けを肌に感じる。
大げさでなく〈ゴゴゴゴッ〉と何か大きな音を立てて、巨大なうねりのようなものが起き上がってくる。
そうして春を告げるのだ。

今のわたしの住処でふと感覚を澄ませたが、やはりあの音は聞こえてくることはなく、ほんの少し寂しさを感じた。

わたしの傍で蠢く者たち。
厄介で、気味が悪い形をしていて、生きている者たち。

奴らで遊び。奴らと遊び。
脅かされ、共に居た。
これ以上ない程、憎むこともあった。
失うこともあれば、また現れもした。

わたしのとなりで蠢くもの。

これはわたしの魂にこびりついた感覚。
わたしの血に馴染んだ蠢くもの達への執着。

これは他の誰でもない、わたしだけの持つ愛着なのだ。


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