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自転車を漕ぐ子ども

話題の映画「怪物」を観た。
観客に問いかける物語のテーマや映像や音楽の美しさは、たくさんの人が評価しているとおり。でも映画を観終わって一番に思い返したのは、何度も出てくる子どもたちが自転車を漕ぐシーンだ。

どうして、あんなにも鮮明に私の心に残ってるんだろう。久しくnoteを書いていなかったから、ここでもう少しじっくり掘り下げて文章にしてみようと思う。

子どもが自転車を漕ぐ、というシーンが印象的な映画はこれが2作目。

1作目は、留学中にInternational Cinemaのクラスで出会った「WADJDA(邦題: 少女は自転車に乗って)」。

舞台はサウジアラビア。女性が1人で外出することや車の運転が禁止されていたりするその国で、自転車に乗りたいと願う少女の物語。

日常に深く根差した宗教的慣習や性差別、映画という娯楽が許されていない国で女性の監督が制作したというバックグラウンド。この映画が訴えるテーマは多く、そして深い。

そんな中でも、もっとシンプルに語りかけるものがある。

自転車を漕ぐ。前に、進む。

「WADJDA」も「怪物」も、小さな社会の中で生きてきた子どもたちが、懸命に自分たちの世界を広げる時の物語だと思う。

まだまだ軟らかい自己や異質な他人の感情、そして抽象的で手に負えない「社会」に向き合うとき、子どもたちは自転車を漕ぐ。

そうやって彼らは大人に近づいていく。それは社会に染まっていく、ルールを受け入れることと同義かもしれない。でも、サウジアラビアの熱くて乾燥した空気も、諏訪の湿った緑の匂いがする空気も、全身で受け止めて前に前に自転車を漕ぐ子どもたちの後ろ姿には諦念や妥協なんてものはなくて、未知への少しの恐怖とそれを上回る希望に満ちている。

傷ついても、かさぶたになって気付いたら治っている。それくらいの生命力を感じるから、私は、子どもが自転車を漕ぐシーンが好きなのだ。

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