能登はやさしや土までも~復興への一献(2)
村上龍太郎が国土緑化推進委員会常任委員長として実現させた全国植樹行事(植樹祭)は,1950年(昭和25年)山梨県で第1回全国植樹祭が開催され,ヒノキがお手植えされ,スギ,ヒノキがお手播きされた。
村上の出身地 愛媛県については,1966年(昭和41年)久谷村(現在の松山市久谷)で開催され,スギがお手植えされ,クロマツ,アカマツなどがお手播きされた。
同じく1966年に毎日新聞社が “緑のニッポン全国運動” を提唱して,都道府県の木の制定を呼びかける。
愛媛県の木は “マツ” に定められ,クロマツ,アカマツ及びゴヨウマツが指定される。
クロマツ,アカマツに囲まれて村上の胸像が松原を見守る志島ヶ原。
この海岸林によって砂,風,塩の影響から守られている桜井地区。
桜井漆器の産地として名を馳せる桜井地区ではあるが,漆器製造に欠かせない素地,漆などの原材料に恵まれた土地柄ではない。
魚行商から始まった桜井の商業活動は,1765年(明和2年)松山藩領から天領になることによって,変貌を遂げる。
御用米を浜桜井から天領の別子銅山,大坂,江戸へと運ぶ廻船業者が出現し,桜井商人による漆器行商組織 “椀舟” の端緒になったとみられている。
米を運んだ桜井の椀舟は,帰り便で大坂にある紀州藩屋敷の商人から紀州黒江(現在の和歌山県海南市黒江)の漆器を調達し,桜井へと運ぶ。
黒江漆器は桜井の一般家庭,寺社向けに販売され,需要は拡大する。
肥前,伊万里,唐津の商人も早くから桜井商人に着目し,陶磁器の取引を開始する。
桜井商人による漆器,陶磁器を中心とした取引が全国に拡大する。
太平洋側は水戸,江戸から鹿児島まで,日本海側は金沢,越中水橋にまで取引先が広がる。桜井は商業の町として発展し,資本を蓄積していく。
椀舟は当初,黒江からの仕入れに依存していたものの,漆器製造の有利性を認めた椀舟の親方たちは,黒江から漆器工を招き,技術指導を受けて自ら漆器製造に乗りだす。
商品として,黒江漆器に桜井漆器が加わるようになり,仕入先も,越前,加賀,輪島へと拡張していく。
もっとも,主な需要先が農村であることから,安価で丈夫な黒江物,桜井物が歓迎され,輪島物のような高級品の取扱いは少量であったとのこと。
このように漆器の商圏,販売数が拡大するにつれ,陶磁器の取引を廃し,漆器専業行商へと業態転換する者が現れるようになる。
更には,技術のない桜井にあって,画期的な製品が考案される。
桜井物の初期製品は,角物,箱物の重箱,箱膳が中心であり,角物は木地に檜材を用い,箱の角は竹釘,金釘を使用していた。
桜井の気風 “進取果敢” のあらわれである。
この櫛指法に,伊予西条の蒔絵師による技術指導が合わさり,近藤福太郎 氏曰く “桜井漆器工業の天保の改革” が成し遂げられる。
桜井漆器業界の “積極進取” はさらに勢いづく。
明治9年に田村只八が,輪島から沈金師 高浜儀太郎を招致し,桜井漆器に沈金模様の技術を導入する。
輪島塗の技術が本格的に桜井に移入されたことにより,堅固で丈夫と評された桜井物の芸術性が飛躍的に高まる局面を迎える。
桜井沈金師のほとんどが,高浜の指導を受けた弟子たちで占められるようになる。塗師についても輪島から多数来訪する。
続いて,1881~1882年(明治14~15年)に加賀山中,安芸宮島から轆轤師を招致し,丸物漆器の製造に着手。
1887年(明治20年)黒江から数十人の熟練工が桜井に来住し,製造を開始。桜井漆器産業はますます活気づくことになる。
技術のなかった桜井において,地場での櫛指法考案,黒江,輪島,山中などからの技術者の招致を経て,椀舟(行商)から全国有数の製造業者へと転換を遂げ,製造者60戸,職工360人を擁する最盛期(大正後期)を迎える。(つづく)
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