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断片集

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2022年7月の記事一覧

「ごめん、幸男君。行かなきゃ」布団から抜け出して景子は言った。

「ごめん、幸男君。行かなきゃ」  布団から抜け出して景子は言った。畳に落ちていた白いスリップを拾って身にまとうと、髪を後ろで束ねた。汗はすっかり引いている。景子は、ちゃぶ台の上にポーチを取り出し、ラジオに鏡を立てかけた。皮脂でテカった肌、汗で滲んだマスカラ、落ちた口紅。華奢な身体を蛍光灯の下に晒し、慣れた手つきで化粧を直し始めた。  ドンチン、ドンチン、ドドン、ドドン。  窓の外から、祭囃子のような音色が遠くに聞こえる。近頃、陽が落ちるとどこかから太鼓と尺八の音がかすかに届く

突然の泣き声が辺りを包んだ。あまりのけたたましい叫び声に相撲は中断され、

 突然の泣き声が辺りを包んだ。あまりのけたたましい叫び声に相撲は中断され、皆一様に声のする方を見た。小さな子供が泣いている。突っ立ったままの小さな足元は、片方が裸足であった。どうやら、片方の靴を川に落としてしまったらしい。流れる小さな赤い靴を、父親らしき人物が川の流れに沿って追いかける。なんとか追いついたはいいが、川端からは手が届かず、再び靴は流され、父親はまた走った。数十メートル先で、近くにいた見物人から長い枝を渡され、父親はなんとか靴を拾い上げた。顔をしわくちゃにして泣き

それから幸尾は毎日、河原へ出向いた。形のいい小石や木の枝を探したり、

 それから幸尾は毎日、河原へ出向いた。  形のいい小石や木の枝を探したり、石をできるだけ高く積んだり、岩についた苔やつららを眺めたり、そういった一人でできる限りの遊びをこなしながら、ちらちらと川面へ目を配った。川上から赤い花びらがひらひらと流れてくるかもしれないからだ。毎日ではないが、それは水流に乗ってやってくる。幸尾はそれを見逃すまいとした。  陽が傾きかけた頃、まずは一片、赤い花びらが流れてきた。先陣を切って勇ましく流れてくるそれを、幸尾は川べりからじっと見つめた。丸く大

ブランコがある公民館では

 ブランコがある公民館ではよく大人達が昼間から酒盛りをしていた。夏のある日、一人でブランコに乗っていると、おやつがあるから寄って行けと酔っ払いに誘われた。大勢の酔っ払いの中に身を置くのは親戚以外で初めてだった。私は、きちんと正座をして、ウーロン茶をもらって飲んだ。  大人達は、思い思いに宴会を楽しんでいた。普段は、畑仕事か工場で働いている人が多いため、物静かな集落である。それが、正月や節分、三九郎、花見や秋祭りといったハレにかこつけて月に一度は酒盛りをするのだ。音楽の授業で「

本当だったら今頃、

 本当だったら今頃、クラスメイトの家で遊んでいる予定だった。家へ帰ってきて、母親へそのことを告げると、車で送って行くね、とか、お菓子持って行く?と聞いてくれた。しかし、クラスメイトの家が隣村だと知ると、突然何も喋らなくなってしまった。彼女はそんな母親の態度の変化に何かを感じ取ったのだろう、クラスメイトの家へ自ら電話をすると、用事ができたから行けなくなったと伝えた。一緒にポテチを食べながら、今日発売のりぼんを読む予定だったのに。  ゲンがウンチをしたので、来た道を戻ろうとすると

ゲンの散歩は私の日課で、ほとんど毎日連れて行った。

 ゲンの散歩は私の日課で、ほとんど毎日連れて行った。たまにサボりたい時もあったが、学校から帰るとすぐに気付かれて、庭から延々と続くゲンの散歩コールに根負けして連れていく。おやつを食べながら窓から覗いたら最後、「オ・ヤ・ツ、オレにも、くれ!」と言わんばかりに更に激しく吠えられる。リードを持って出ると、ゲンは狂喜乱舞して暴れ出し、なかなか首輪にリードを付けることができない程だった。そしていざ鎖を外すと、そのまま数百メートルの疾走が始まる。左には家の砂壁(ザラザラとして腕を擦ったら

通常は、己の醜さをなんとか誤魔化せることができた

 通常は、己の醜さをなんとか誤魔化せることができたので、周囲との差異による苦しみを半分忘れて生きて来た。見えないものは、自覚することを忘れてしまう。その事実を半分忘れながらも、ふとした瞬間に問題は露呈し、大体の事は諦めて生きてきた。体育のプールも、学年スキー合宿も、キャンプも修学旅行も、参加したことがない。「成長したら」とかすかな望みを持っていたが、何年経っても改善される事はなく、時間だけが過ぎ、人に好かれることも、選ぶことも選ばれることも諦め、万一奇跡的に誰かが現れたとして

こんな事もあった。村のお祭りの日、

 こんな事もあった。村のお祭りの日、「親友」とお神輿の後をついて神社へ向かっていた時、どちらからともなく追いかけっこが始まった。追いかけてタッチしては、鬼が交代する。二人だけの追いかけっこだ。  ちょうど私が鬼の番になった時、友達は近所のおじさんの足元に逃げ込んだ。きゃあきゃあ言いながら、私も追いかけて行った。楽しさは絶頂だった。が、おじさんは何を勘違いしたのか、「親友」を守るようにして、私にゲンコツを与えた。醜い子供が、かわいい子供をいじめていると思ったのだろうか。私は、何

私は、醜い子供だった。

 私は、醜い子供だった。そのため大人に好かれる事はなかった。  シルバニアファミリー一式を持っている同級生と小学校六年間、毎朝登校していたが、今になって思うと、その子の母親からも嫌われていたと思う。もちろん、醜かったからだ。  ある朝、私はマスクをして登校した。理由は顔を隠したかったから。玄関まで娘を見送りに来た同級生の母親は、私のマスクに気がついて、こちらを見下ろしたまま「風邪?」と聞いた。黙ったまま首を横に振ると、「そう」とだけ吐き捨てたように言った。目は笑っておらず、蔑