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選択的ノイズについて

私は集中力が切れたら散歩に出ることにしている。近所の見慣れた風景は、情報が少なく、思考をシンプルにしてくれる。

散歩をしていると、ふと作業で詰まっていたところの解決策が思いついたりする。ふとやりたいことや行きたいところが浮かんでくることもある。そうして歩きながら思考を自由にしていると、自分が何を欲しているのかや、何が足りないのか、何に満足しているのか、何が好きで、何が嫌いなのかなど、本質的なことが段々と見えてくる。家に戻るときには、考えが整理されていて、すっきりした気持ちになる。

しかし、家の扉を開けると一気にノイズを浴びて、整理されたものがごちゃごちゃになってしまう。主なノイズは、同居している家族が見ているテレビである。テレビから出てくる音や言葉はアテンションを集めることを目的として研究されているせいか、気を引いてくる。無意識に、テレビの音や言葉に気を取られ、直前まで考えていたことが一気に消え失せてしまう。別にテレビが嫌いというわけではないが、自分の方が大事なので自分を優先したいというだけである。

私は「テレビ」をノイズの象徴として捉えている。だから、ノイズにはテレビ以外にも色々なものがある。動画の中に差し込まれる広告は動画の内容を一瞬忘れさせる。インターネットの記事の間に差し込まれる広告も、文章の文脈を忘れさせる。仕事中にピコンと鳴るスマホも集中力を削いでくる。それらは全てノイズである。ノイズとは、時間を伴う意識の文脈に飛び込んでくる全く関係のない認識対象である、と私は定義する。

不幸なことに、この世界で生活をしている限りノイズは避けられないものである。ノイズのせいで、自分がやりたいことを忘れてしまったり、好きなことを見失ったり、大事なことがうやむやになったりするので、これは大変悲しいことであると感じる。

一方、ノイズを生活から排除すると、それはそれで問題がある。人は物事に集中しすぎると、段々と周りが見えなくなってくる。外部からの情報が無いと新しい発想が生まれず、快活さが失われることがある。どんどんと視界が狭くなることで、単一的な思考になってしまい、自分を追い詰めてしまうこともある。

ノイズが多すぎると自分がわからなくなるし、ノイズが少なすぎると独りよがりになる。つまり、ちょうど良い量のノイズをピックアップすることが大事なのである。ちょうど良いノイズを取り入れることで、環境との関係性の中で自分を捉えることができる。その環境は、モノであったり、他人であったりする。モノから新しい着想を得て自分の思考を発展させられたり、他人と協力してより大きな価値を生み出せたりする。

取り込むノイズの量は、ある程度はコントロールすることができる。ノイズには動かせるものと動かせないものがある。ひっきりなしに車が走る道路は動かすことができないが、自分の部屋にあるテレビは動かすことができる。動かせないものは自分が移動することによって、動くものは自分が動かすことによって、ノイズを調整することができる。

"ある程度は"といったのは、環境や時間によっては自分が動くことが制限されたりするからである。オフィスに出勤して仕事をする人たちは、上司のデスクを動かすことはできないし、自分だけテレワークという訳にはいかないこともある。だからこそ、自分がコントロールできる範囲では意識的にノイズを調整する、というのがより一層重要になると私は思う。

以上では、ノイズのについて言及したが、そのも同じくらい大事である。この記事が好評だったならば、ノイズの質について私が考えてきたこともまとめたいと考えている。だから、参考になった方は何かしらで反応をください。



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