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フランス革命

領主の権力から市民の権力へ


1789年7月14日、フランスのパリにあるバスティーユ牢獄に民衆が集合し、襲撃、武器を奪って破壊した。

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ヴェルサイユに居た国王ルイ16世のもとにもバスティーユ襲撃の知らせは届いた。

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暴動か?と聞いた国王に側近は、いいえ革命です、と答えたという。

”圧政に苦しんだ国民が革命を起こした”

普通のフランス革命の説明ではここまでしか語られない。

しかし、経済という側面でフランス革命をみると、違う景色が見えてくる。

資本主義革命としてのフランス革命

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フランス革命の風刺画として最も有名なものだ。 

第一身分の聖職者第二身分の貴族第三身分の平民に重くのしかかっている様子だ。

重要なのは、この平民の中には市民出身の商人も含まれているということだ。

聖職者や貴族には免税特権というものがあった。領主として多額の収入を得ていても、税負担はなし。フランスは各国と戦争し続けていたため、国家財政が逼迫していたが、その負担は第三身分である平民に全て被せられた。

それだけではない、貴族の中には特殊な役職を得て報酬を貰う者も多かった。具体的には小間使いのような職に年俸数億出すなど。現代風にいえば、天下りである。国家財政を自分の所に入れる方法として貴族はこのような制度を使っていた。問題は、その負担も第三身分の商人や農民が重税で賄っていたということである。

そんなことから、第三身分の間では、特にそういった既得権を持たずに成り上がった富裕な商人には旧体制(アンシャン・レジーム)への不満が募っていたのだ。

旧体制の既得権の暴走に起こった市民(特に富裕な商人)が、公平な課税や国庫を食いつぶす特権の廃止、自由な商売ができる制度などを求めて、武装蜂起したというのがフランス革命の本質なのだ。これはアメリカ独立革命やオランダ独立戦争、穀物法廃止、ピューリタン革命、名誉革命などにも共通するものがある。


ブルボン朝末期になると、財政が破綻状態となり、新たな課税をしようと印紙税などを試みるが、ものすごい反発に遭う。かと言って貴族へ課税しようとした蔵相は尽く失脚させられたため、万策尽きた状態だった。

仕方がないので3つの身分の代表者を集めて三部会を開き、話し合いを行うが、まとまらず、第三身分が怒って自らを国民議会と名乗り、テニスコートの誓いといって憲法制定まで解散しないことを宣言するなど、混迷を極めた。

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宮廷貴族も特権階級への課税を認めたが、その代わりとして国債を強制的に購入させる法も作ろうとした。事実上の財産税になるため、さらなる反発を生んだ。

1789年7月に入り、国王は改革派のネッケルとその側近を罷免。あくまで宮廷貴族側が力を保つ形にしようとした。パリで暴動が起こることを予見し、軍をパリに集結させ、国庫やバスティーユだけは死守しようとした。

そんな中で第三身分の中の富裕な商工業者は、給与の支払いが遅れて士気を失っている兵士や民衆に働きかけ、蜂起へと導いた。

それが、先述したバスティーユ牢獄襲撃へと繋がったのだ。

結果として、宮廷貴族たちは民衆によって処刑された。この時点では、国王は悪くない。周りのやつらが悪い。という論調だったため(実際、ルイ16世は人柄がよかった)、首の皮一枚で国王は処刑されず、人質状態で生き残った。

これによって政権の舵取りを行うことになる第三身分、特に商工業者たちは、自由主義寄りの貴族と組んで財政の立て直しと課税の適正化をはかることになる。

時を同じくして、全国各地で農民が暴動を起こすようになる。領主の城や館を直接攻撃したのだ。これには国民議会も参ってしまった。

国民議会は、まだ国王軍と戦っている状態である。農民の暴動を武力で鎮圧した場合、国王軍と挟み撃ちに遭う可能性がある。

そこで、国民議会は農民の不満の対象であった封建制に対し、十分の一税(教会のテリトリーで所得の10分の1を独自に課税できる権利)や領主裁判権などは無償で廃止。土地にかかる税金は簡単な地代に一本化するなど対策をとった。

結果、農民の暴動は収まった。

更に教会財産の国有化も行った。その接収した財産を担保としてアシニア紙幣を発行したのだった。

党派の明確化

そんな中事件が起こる。

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国王ルイ16世と王妃マリーアントワネットがオーストリアに逃げ込むべく馬車に乗り込んでパリを脱出していたことが発覚し、捕まったのだ。これが有名なヴァレンヌ逃亡事件である。

これにより、国王への同情心は国民の心の中から消え去った。

一方国民議会も、フイヤン派ジロンド派ジャコバン派に分かれ、党派を形成し始めた。

一番最初に政権を取ったのがフイヤン派だ。フイヤン派は自由主義貴族と富裕な商人を中心として形成されており、上記の3つの中だと最も穏健派だ。この時に1791年憲法が制定される。立憲君主制を採用した。そして国民議会は解散され、新憲法による立法議会が招集された。

フイヤン派は立法議会でも政権運営を担った。そして安定した政権運営と経済運営によって人々の暮らしは楽になり、騒乱状態は収まった。生活必需品の物価は下がり、輸出も増加した。

ところがアシニア紙幣の価値が下がり始め、地代による税収が増えなかったことで財政悪化を招き、更にアシニアを増発する悪循環に陥り、物価が高騰したことで再び大衆は荒れ始める。

また、オーストリアやプロイセンはフランス革命に介入し、王権回復を試みたため、フランス側も反発した。

そんな中で誕生したのがジロンド派政権だ。

ジロンド派は亡命貴族の財産の差し押さえや、オーストリアとの戦争を開始した。しかしフランス軍は士気が低く、国王と王妃もオーストリアに内通していたので敗走を重ねることとなった。

そこで、忠誠心のある軍が必要だろうと結成されたのが義勇兵だ。

義勇兵は1792年8月10日、ルイ16世のいるテュイルリー宮殿を取り囲んだ。これを8月10日事件という。

その後、ジロンド派の政権が再結成された。義勇兵は圧倒的な士気によって進撃を進め、プロイセンやオーストリアを圧倒した。

パリでは国民公会が招集され、王権の廃止と共和制の樹立が宣言された。ルイ16世の処刑も決定された。

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一方、フランス軍も敗戦に転じ始める。アシニアの価値が下落しインフレーションが起き始めると、暴動が起き始める。インフレ抑制対策は、株や貴金属の取引停止、公債の強制買い入れなどが決定された。これは事実上の増税なので商人は大反発した。一方で商人の間でも利害の対立があり、ジロンド派支持層も一枚岩ではなくなってしまった。

そして、ジャコバン派がジロンド派を逮捕、次々と処刑された。王妃マリーアントワネットも処刑された。

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ジャコバン派は、ロベスピエールを中心とし、恐怖政治を行った。

この頃フランス軍は更に敗走を重ねていた上、インフレーションと生活物資の買い占めが激しくなっていた。そこで物価の最高価格の決定や買い占めの禁止令を出した。更に反革命派と見なした人物を次々と処刑していった。

結局最後はロベスピエール自身が処刑されることで幕を閉じた。

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ロベスピエール処刑後は、株式市場や商品市場の再開、国債の利払い再開、没収財産の返還が行われ、フランス革命はここで完成することになる。

もしロベスピエールが処刑されていなければ、また以前の封建制が形を変えたものになっていて、資本主義革命のカテゴリーに入らなかったかもしれない。

しかし、1部の例を除いて、やはりいつの時代も富裕な市民が一番得だ。




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