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コミュニティが羨ましいのに入れない、その矛盾。


私の親友(女)は、とにかく友達を作るのが上手。
高校の時の友達とご飯を食べに行ったかと思えば、SNSで知り合った友達と遊びに行く。終電を逃すと大学の時の先輩の家に泊まったりもする。

その子と私は週1くらいで会うのですが、彼女の会話には毎回初めて聞く人が出てくるのでいつも驚かされます。

このまえフォロワーさんと○○に行ってね。
誰々とご飯食べた時にさぁ。
見てよこの動画、誰々と誰々の家言った時にね。

同じ量の時間を生きていることを疑いたくなるくらいに、僅かな時間を使ってあっちに顔を出して楽しんだり、こっちに顔を出して喜んだりしてて。
勿論仕事も行きながら、ですよ!
「ほんと、よく体力がもってるよね」と自嘲気味に話す彼女はいつも幸せそうな顔をしています。


それを聞きながら私は、羨ましいな、と思うんです。

彼女はそれらを通して色んな場所に行き、色んな体験をして、困ったことがあっても様々な人に相談ができる。
でもなにより、私は他人と仲良くできる、というそれ自体が羨ましい。

凄く楽しそう。皆で盛り上がって騒いだりして。ちょっと羽目を外して笑ってみたり、自分の想いを語ってみたり。羨ましい。


でも、そうやって「羨ましい」って思いながら「私も!」って思えない自分もいるんです。この矛盾はなんだろう。
子供の頃の女子の変な集団意識は苦手だったけど、だからといって人が嫌いなわけじゃありません。寧ろ人は好きです。

自分なりに答えを探してみました。




私はどうも、人と会話をしていると「上っ面」になるんです。
これは今までずっと、会話は聞き役に徹していたのが原因だと思います。

話そうにも何を話したらいいのかわからない。話そうにも相手の気分を害さないかとか、話すことで変な目でみられないかとか、そういう迷いが生じる。

だからあんまり自分から話しません。
頑張って話し始めても当たり障りのないことばかりだし、聞いてる相手は、私に「聞き役」というイメージを持っているから、ほとんど「ふーん」で終わって「……でさ~」って話し始めます。
別にその子が悪いわけではないと思います。一度ついたイメージを一瞬でひっくり返そうとする瞬間なんて、大抵気付かない。

そうやっているうちに会話に疲れるようになって、なんかヤダなって思うようになって、どんどん離れていく。というのが、私の人間関係の”いつも”です。


でも、なのに、人は好きで。友達付き合いとかが、どうしようもなく羨ましくて。「いいなぁ」を通り越して「ズルい」とさえ思います。
私はこんなに悩んで解決法を探しているのに、貴女はどうして簡単に、周りの人と関われるの。



そうやって思考を巡らせて、最終的に私が出した答えは、
「人と話すために、私のハッキリとした自己認識が足りなかった」
というものでした。
前のノートでも自己認識が足りないと書いた覚えがあります。
もはや生きていくうえで自己認識って、超重要課題じゃん。


考えに至った経緯を話します。
じゃあ逆に、私が「上っ面」で話していなかった、と思える会話はいつのどれか。と、考えたんです。

一応ありました。学生時代、吹奏楽部をやっていた頃。

昔から音楽はずっと好きでした。
演奏会での発表も好きだし、コンクールも好き。
ちょっとひねくれたタイプでしたが、まあ音楽好きということで周りと馴染めていました。

私の演奏の基本は「例えどんな事情があっても、舞台の上に立てば私は最高のエンターテイメントを期待されたプレイヤーだ」というポリシーで成り立っていました。音楽からはなれかけていた今も、その気持ちは変わりません。

舞台に立つからには最高の音楽を届ける。妥協はしたくない。

だから同期をはじめ後輩や先輩にも、演奏の事に関して言わなきゃいけないと思ったことはハッキリ指摘していたほうだと思います。
(ただしそれ以外の話はからきしでした)
しかも、人にハッキリと何かを断言できた時は、割と生き生きとしていました。

それはどうしてだったのか。簡単ですね。自分の音楽に対するポリシーがあって、「最高の音楽を作りたい」という強い思いがあったからです。



というわけで、私に足りないのは「自己認識と主張」ということがわかりました。
みなさんにとって当たり前の事かもしれない。
でも、私にとっては「そういうことだったのか!」という大きな発見です。

だったら、コミュニティうんぬんの前に、もっと自分の本音を見つけないと。と思ったのでした。


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