3月11日のRADWIMPS

はじめに

2021年3月11日をもって我々は、現代では東日本大震災と呼ばれる、あの震災から10年の節目を迎えた。その事にまつわる僕個人のあらゆる感情や考えをこの場で語るつもりはないが、僕はこの10年間に渡る時の流れの中で、この震災を、あの日以来 被災地と呼ばれることとなった 福島をはじめとする東北の各地を、そこに生きた・生きる人々を、そして何よりも、未曾有の天災によって炙り出されたこの国や世界の姿を、真っ直ぐに見つめ続けたバンドを知っている。RADWIMPSである。

RADWIMPSは、2011年3月11日の東日本大震災発生直後、義援金プロジェクト「糸色 -Itoshiki-」を立ち上げた。以降、賛同するミュージシャンやクリエイター、俳優らとともに被災地への支援を継続。例外を除きほぼ毎年の3月11日には、写真家であり映像作家の島田大介と制作した映像と共に、YouTubeを通じて新曲を発表し続けてきた。
そして、震災から10年の節目となる本年の3月11日、この10年の間に発表された楽曲群に、新たに「かくれんぼ」「あいたい」の2曲を加えた計10曲が、発表順に収録された"10年間の定点観測で生まれたコンセプトアルバム"『2+0+2+1+3+1+1= 10 years 10 songs』(テンイヤーズ テンソングス)がリリースされた。

今回、10年間のRADWIMPSの足跡を簡易的に振り返りつつ、個人的な解釈も都度含めながら紹介する、という名目でこの記事の執筆を始めた。しかし書けば書くほど、聴けば聴くほど、RADWIMPSの3月11日を巡る活動の中に、当初の動機を超える発見や気づきを得て、そこに込められた彼らの意思を、自分の納得出来る形で記録として残すことへと目的がシフトしていった。結果的にかなりの長文を認めることになってしまったが、RADWIMPSと3月11日の関係性、その変遷という視点を1つの軸として纏めた備忘録のような文章が書き上がった。

予め断っておくと、この内容はあくまでも一個人の解釈、その範疇を出ないものであり、正しさを押し付ける意図は一切持ち合わせないものであるが、そういう危険性を孕む性質であることも理解した上、整合性と客観性には極力その正確さを担保出来るように細心の注意を払ったつもりでいる。それに伴い、内容的な批判も勿論歓迎するが、明らかな情報の出処の誤りなどを発見された場合、コメント等を通じて指摘いただけるよう、お手数ですがお願い申しあげます。

2011年:震災発生と『糸色 -Itoshiki-』の立ち上げ

奇しくもこの年の3月9日、つまり東日本大震災発生の2日前、RADWIMPSはメジャー4thアルバム『絶体絶命』をリリースしていた。アルバムを引っ提げたツアー『絶体延命』は4月から福島を皮切りに東北を回る日程が組まれていたが、当時の状況は当然それどころではなく、東北でのライブは延期となる。後に自身のエッセイ『ラリルレ論』の中で野田洋次郎(Vo,Gt,Pf)は

"当時の僕は被災地の状況が気がかりで支援物資を運んだり、義援金を集める等ライブどころではなかった。今思えば異常な精神状態でのツアーだった。"

と語っている。
また野田は、震災の発生から3日後にプロジェクト『糸色 -Itoshiki-』の特設サイトを立ち上げ、メッセージと義援金を募り、前述したツアーにおいても募金箱を設置するなど、被災地支援のために奔走していた。この『糸色 -Itoshiki-』設立に関して、当時RADWIMPS公式HP内、WIMP'S REPOのコーナーにおいて、

"自分のちっぽけさに頭が爆発しそうだ。/なんなんだ。/考えても何一つ世界は動いてくれないから、もうやることにした。"

と綴られている。『糸色 -Itoshiki-』のサイトによれば、義援金の総額は2011年3月14日~同年7月25日までの期間に¥25,238,122(2,722件)までに達し、日本赤十字社に寄付された(全国32会場での募金総額:¥4,565,921を含む)。

2012年:「白日」

震災から1年の月日を経て、RADWIMPSはYouTubeにて新曲を発表した。「白日」である。

2012年3月11日更新のWIMP'S REPOにて、

"今日新曲が完成しました。/あれから一年経つこの日をどう迎えるかずっと考えてたらどうしてもこの曲を録りたくなって、昨日の昼にメンバーに連絡しました。/どうしてもこの日に演奏して歌いたかった。/そしてついさっき完成しました。2012年3月11日生まれ。名前は『白日』。"

と記された本楽曲。
当時から3月11日に発表されてきた楽曲に対して、RADWIMPSサイドがあまり多くを語ってこなかったため、多種多様な解釈や考察がリスナーの間で広がっており、この「白日」についても同様である。今回の記事の趣旨は、楽曲について解釈を並べるということではないのだが、一応さわり程度に言うのであれば、この楽曲は歌詞にある《たらい回された罪》の所在を問う曲だと僕は考えている。つまり、罪を"白日の下に晒す"ための曲。震災を通して期せずして炙り出されたもの。日本という国の脆さ。失われた命や生活。圧倒的な理不尽。終わらない復興。それを目の当たりにして尚、変わらない国。当たり前の上に胡座をかく人々。犠牲。優しさと残酷さ。善と悪。この曲にパッケージされたものは震災に伴う絶望の空気と、未精算の負の遺産だ。そしてこの曲は糾弾であり、自戒でもある。人間の力は、優しさは、凄まじい程の力を確かに見せた。その一方で抹殺されようとした、何処かの誰かに不都合な"何か"を逃がさないためにこの曲はあると思っている。救いのない、絶望だけの曲と言いたいわけではないが、ここに微かにある希望はまだ、決して幸福とイコールではない。RADWIMPSとしては確かな、それと同時にとてつもなく重い1歩であったことは想像に難くない。

2013年:「ブリキ」

前年と同様に、YouTubeにアップされた新曲。タイトルは「ブリキ」

2013年3月11日更新のWIMP'S REPOでは

"一年前から、どれだけのことが変わったんだろ。たくさん変わったようで、何も変わってない気がする。/この日くらいはただただ思いだす日でもいい気がする。"

"狂った世界にばんざい。それでも愛すよーー。"

と綴られた。
映像内の歩数が431歩になっていて"しんさい"を表してる(自分で数えて検証したことがまだないので懐疑的)だとか、246歩目で赤い線を踏むのは震災が起こったPM2時46分を示している(こちらは以前3回数えてそれぞれ246、245、246とかだったはずなので可能な解釈ではある)だとか、こちらも考察が盛んにされている楽曲。君の記憶と、君が居ない今日とを通して、変わりゆくものと変わらずあるものを描き出す「ブリキ」には、あくまでも主観だが、「白日」と比較した時に、確かにあの日から地続きの世界の上で、かなり希望に寄ったものが歌われているという印象がある。しかしこの希望も「白日」と同様、幸せの類と直接的に結び付くわけではない。曲中、

《もう少ししたらね もしかしたらね/「全てが幻だったのかもね」なんて笑える日が来るからね/そのままで その日まで》

《したらまたね 君の力で運命を決める日が来るからね/すべてその手 己のせい(で)/笑うのも痛むのも またね》

という印象的な歌詞が繰り返されるが、これは英語で言うところのhopeというよりは、どうもwishに近いニュアンスに思えてならない。即ち、この曲の中にあるものは、そうなるだろう という確信や期待ではなく、そうなってほしい という願いや祈りとしての側面が強いように見えるのだ。故に、いつか訪れる《その日》を目指して行進するブリキの兵隊ではなく、いつか《その日》が訪れる時まで腐らせぬように《「おかえり」》というその一言を閉じ込めるためのブリキの缶詰。それこそがこの曲の役割なのだと思っている。参考までに、"ブリキ"とは鉄にスズをメッキした表面処理鋼板を指し、スズが鉄より酸化しにくいという性質上水に強く、特に食料品用の缶詰の素材によく使われる。

余談だが、この「ブリキ」にはあまり知られていない歌詞があることをご存知だろうか。2013年9月28日〜10月4日までシアター・イメージフォーラムにて公開された、島田大介による自主製作短編映画『ただいま。』(出演:小松菜奈、宇野祥平(敬称略))で、RADWIMPSの「ブリキ」がエンディング曲として起用された。島田氏は他ならぬ「ブリキ」をはじめ、この記事で触れる3月11日の発表曲や、その他多くのRADWIMPSの楽曲でMV制作を手掛けたり ライブ映像のディレクターを担当している。この『ただいま。』が2016年にDVD化された際に、特典映像として、小松菜奈氏出演の「ブリキ」のアナザーMVとでも言えるような映像が収録されているのだが、ここで流れる「ブリキ」では、2サビとして新しい歌詞が追加されている(さらに言えば間奏なども編集されている)。その歌詞というのが、

《もう少ししたらね もしかしたらね/「全てが幻だったのかもね」なんて笑える日が来るからね/そのままで その日まで》

《したらまたね 君の力で運命を決める日が来るからね/全てその手で決めるまで/笑うのも痛むのも またね》

というものだ。原曲にはない《全てその手で決めるまで》という一節が追加されている。
大いなる引力に歪められることなく、笑うのも、痛むのも、自分が自分で選べたのならそれは幸福だと、少なくとも僕は思う。そういう意味でまだ「ブリキ」が歌うのは"幸せ"そのものではなく、言うなれば"幸せの数え方"のひとつを提示しているに過ぎないのではなかろうか。

またこの年、RADWIMPSと被災地を繋ぐ、もうひとつの大きなファクターとして、『青とメメメ』が挙げられるだろう。宮城県の国営みちのく杜の湖畔公園にて、2013年9月15日に開催され、2万人を動員した1日限りの野外ライブ。当日は開催が危ぶまれるほどの大雨に見舞われながらも、開演10分前に突如として雨が上がり、終演まで一度として再び降り始めることはなかったというエピソードはリスナーの間でも語り草だ。本来は震災翌年に開催したかった所を実現出来ず、1年越しに悲願のライブとなったことが公言されている。この『青とメメメ』の実施に際し、石巻・サルコヤ楽器にて、同市内の幼稚園で 津波で水没したグランドピアノを2ヶ月かけて修復。その一部始終を収めた映像が上映された後、ステージ上にピアノが登場。そのピアノを用いて、2011年7月5日に実施された『絶体延命』ツアー 大阪公演の本番直前に制作され そのまま初披露された楽曲「ブレス」と、メジャー1stアルバム『RADWIMPS 3 〜無人島に持っていき忘れた一枚〜』の収録曲「螢」が演奏された。その音色の美しさに感極まった野田が曲の合間涙を流すという一幕が記憶に残っているファンも多いことだろう。後にこのピアノは宮城県内の小学校に寄付されることになる。『青とメメメ』は、RADWIMPSが震災や被災地と音楽を通して向き合い続けようとする覚悟が結実したひとつの産物であり、より一層この覚悟を強くする根拠足り得るものでもあったはずだ。

2014年:「カイコ」

2014年3月11日、新曲「カイコ」が発表された。

恒例のWIMP'S REPOで

"この日にふさわしいのかどうかわからないけど、3年前の出来事があって産まれた曲。"

"何かを変えられるのは、今生きている人たちだと思う。/あの出来事に意味を与えられるのも。無かったことにするのも。/あんな痛みをともなって蒔かれた種なら、せっかくなら、ちゃんと咲かせたいと僕は思う。"

と語られたこの曲。《世界は疲れたって 僕にはもう無理だって》というサビのフレーズに代表されるように、歌詞は終始して絶望と諦観に満ち満ちており、そこに目に見える形で切り取られた希望の類は欠片ほども見られない。これまでの2曲と打って変わって、震災を契機に明るみに出た負の構造やネガティブな感情が、単純明快な問題提起や決意表明のような体を成すわけではなく、マクロとミクロの両視点を交えたストーリー仕立てで描写されたという印象。そのため、故意か偶然か、この曲で歌われる《世界》とは捉え方によっては概念的なものでもあり、質量を伴う現実的なものでもあるという特異性がある。例を挙げると、人々のため息と 悲鳴と 喘ぎ声とを吸って人々を生かす木を、蝕む癌であり菌もまた人の姿形をしている、という一連の描写などはその最たるもののひとつと言えるだろう。物質としての木が人間の吐く二酸化炭素から酸素を作っていて、そんな木を独善的な営みのため切り倒して減らし続けているのも人間だというのは揺るぎない事実として存在しているが、概念として人間が生きるために必要な枠組みを"木"と総称して比喩した時にでも、現実の木と同じ構図が成り立つのだ。即ち、究極的には人間の生きる世界にとって世界を壊す癌や菌も人間である、というように。また、蚕は古来より神の遣わせた神聖な虫として重宝されているが、その一方で完全に家畜化され、人間の手以外では生きられない昆虫という一面も持っている。この歪な神聖さと脆弱さの二面性に、人間と世界との関係性を重ねるのは些か強引かも知れないが、人間が神の遣いかどうかということは兎も角として、この「カイコ」という曲で歌われるように、世界の側に匙を投げられては人間は生きられないということは確かだ。平等に与えられた不平等、誰の目にも明白でありながら黙殺される理不尽。RADWIMPSお得意の神の目を借りて描かれる、少々ドラスティックなまでの因果応報(この点は「白日」と共通するテーマでもあるように思えるが)。「白日」や「ブリキ」がその時勢の空気を反映して作られたドキュメントや 実話に基づくドラマのように描かれていると捉えるのなら、この「カイコ」の意義はきっと、即時性よりも普遍性を重視した警鐘であり、寓話や御伽噺に近いもので、そう考えると"撒かれた種"というニュアンスに一本筋が通る。この記事でも既に登場している野田のエッセイ『ラリルレ論』に、この曲が発表された日の記述がある。

"映像と一緒に毎年言葉を載せているんだけど、今年はさらになんて言えばいいかわからなかった。/(中略)その人たち、遺された人たちの想いを想像しても僕には知ることができない。"

"だからあくまでも僕は僕の目から見える景色を語るしかない。/そこから見える悲しみと希望を歌うしかない。/希望という言葉が僕は苦手だ。/でもこういう時にこそ使いたいと思う。"

"この国に、今生きる人に、次の世代に、希望がほしい。"

"絶望に用なんてないのだ。"

と。しかしこの上で尚、この曲に託された希望はこの曲の中には描かれていない、と僕は敢えて断言しよう。何故なら、彼らが見た希望はこの曲の1歩外、この曲を歌い継ぎ、物語が語り継がれた先の世界にこそあるのだ。

2015年:「あいとわ」

2015年3月11日のPM2:46に公開された楽曲。例外はあるが、この年以降曲の発表時刻を震災の発生時刻と合わせることが慣例化していく。タイトルは「あいとわ」

"愛とは"、"愛 永遠"、"愛 と 和"、"I とは"、etc...と、タイトルの意味について 解釈の可能性を列挙すればキリがないが、少なからずこの楽曲で語られるテーマに《愛》というものが含まれているのは決定的だ。

《原発が吹き飛ぼうとも 少年が自爆しようとも/その横で僕ら 愛を語り合う》

という衝撃的なフレーズから幕を開けるこの曲。実はこの楽曲は、この前年にあたる2014年、メジャー5thアルバム『Xと○と罪と』を引っ提げたツアー『RADWIMPS GRAND PRIX 2014 実況生中継』の最中に、引用した最初の一行の歌詞がふと出てきたというところから制作が始まったという背景がある。実際、アートディレクター 永戸鉄也が監督を務めたRADWIMPSのドキュメンタリー映画『RADWIMPS 2014 Document 4×4』においても、ツアー日程中にピアノで「あいとわ」の一節を弾き語る野田の様子が収められている。この一行を皮切りに、「あいとわ」で綴られる歌詞は、一言で言えばただ人間とその営みを、その事実を事実として淡々と描くものだ。原発がメルトダウンしても、自爆テロが起こっても、或る意味では性懲りも無く、我々は呑気に愛を語らっていたりする。地球の裏側で死にかけている他人よりも、隣で笑う愛しい人の頬に手を伸ばす方がずっと簡単で、ずっと幸福だからだ。そして、その腹から生まれ出たこの曲は、そのことを咎めることすらしない。だからこそこの曲から響くメッセージは重く、そして美しいのだ。そんな愛だと知って苦悩しようとも、そんな世界だと目を合わせぬまま知らずにいようとも、そこにただ生きる事を決して否定せず、幸福を選ぶことを決して非難せず、この曲を聴いた個人にすべてを委ね、その人生にただ寄り添う。そういう懐の深さがこの曲にはあるのだ。また、2015年発売のMUSICA vol.97に掲載されたインタビューによれば、この曲の2度目のAメロの歌詞は、レコーディングの1ヶ月半くらい前まで

"〈あなたへの気持ちを僕はまともに言えなくて 周りで起こる悲劇を目いっぱい味方につけて やっとの思いでひと言が言えます〉みたいな歌詞だった"

と、今よりドライに描かれた内容だったことが明かされている。個人の見解で述べるのであれば、この曲が今の形に舵を切って辿り着けたことが僕はとても尊いことだと思うのだ。本人はこの方向転換について、

"『この期に及んでまだそんなこと言ってんの?』みたいな感じに自分でなっちゃって。"

"それはもうわかったよっていうか……その先でちゃんと何かを言いたかった。"

と語っているが、こうして生まれた結論は、かつて「ブリキ」で歌われた《君の力で運命を決める日》の訪れる兆しを感じさせるもののように僕には思える。そしてこの修正こそがこの曲が言わんとする事、描く姿勢そのものであり、生まれた意味と同化する。メタ的だが、この曲自身が望んでこの曲を完成させたかのように思えてならない。遠回りしたが、要は「あいとわ」で歌われている光景は、愛とは斯く在るべしという理想の教示でもなければ、単純な愛の在り方を問う禅問答でもない。震災や遠い国の戦争を通して、浮き彫りになったこの世界の形の中でも、より普遍的で絶対的に響く愛への、命への、賛歌なのだ。

2016:「春灯」

震災発生から5年目、10年をひとつの節目とした時、ちょうどその道程の半分の地点で生まれたのは「春灯」(読み:しゅんとう)という温かな楽曲であった。

この曲が発表された前日にあたる3月10日の15時19分、RADWIMPSの公式Twitterにて、『「あの時、5年前の3/11に自分が何をしていて、何を思っていたか」を紙に書いた動画』と、『今、自分が見ている景色の動画』を各15秒ずつ・合計30秒のひとつの動画の形式で、Twitter及びInstagramで募集する旨が発表された。同日22時までに集まった動画が編集され、この「春灯」の映像になっている。
この曲は、この時点までの5年に渡って発表されてきた楽曲の中で唯一、明確に《幸せ》という言葉を用いて描かれた曲だ。

《逢いたい人がいるこの世界には/せめて僕が生きる意味がわずかでも あるかな》

《逢いたい人がいるこの世界に/今日も目覚める 僕はきっと幸せですよ》

曲を通して、この世界の中で《生きる意味》を模索し、《逢いたい人》、即ち《君》さえいれば、意味などなくともただ《幸せ》であるということを見つける《僕》。不要な要素を削ぎ落とし、極めてシンプルに描かれた、非常にRADWIMPS的な楽曲と言えるのではなかろうか。前年の「あいとわ」の1歩か2歩先、何枚もの鎧のような重ね着を脱ぎ捨てた浴槽にこの曲はある。当時この曲を聴いた時、僕は何となく、ああ、RADWIMPSの3月11日の曲作りは今年で終わるのだろうなと予感した。それほどまでに、重い荷を下ろしたような、或いは一つの境地に辿り着いたような感覚を覚えたのだ。実際この年のWIMP'S REPOでは、

"来年以降も曲を作るかはわかりません。当たり前にやるかもしれません。"

と綴られた。ああ、やっぱりなと思った。そして同時に、それでいいなとも思ったのだった。当時、曲を聴いてからこの文章を読んだリスナーは皆そうだったのではないだろうか。例えば映画で言うところの、クライマックスを終えた主人公達が日常に戻っていく、エンドロールまでの短い時間のような、起承転結の結にあたる楽曲として、この「春灯」はとても非の打ち所のない説得力があったのだ。"救い"と一口に述べるのは危うさがあるが、この曲が明確に肯定して見せた、あの震災を知る人間が生きて、《幸せ》だとさえ言える姿は、間違いなく"救い"であると、そう感じられるに足るだけの楽曲であった。

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中書き

さて、ここまでにまとめた2011年〜2016年までをここでは便宜上、前期と呼称しよう。この前期の楽曲は震災という非常に大きな出来事を、3月11日という座標を定点として、ある時は憎み、またある時は風化させぬよう守るかのようにしながら記録してきたものだ。しかしその形は前期の中ですら徐々に変化を遂げている。具体的に言えば、震災からまだ月日の浅いうちに生まれた「白日」と「ブリキ」は震災そのものやそれに伴う環境の変化の影響を色濃く受け、それを写実的に描く性質が強かった。それが時間の経過と共に、震災そのものから、震災を受けて変化を遂げた世界や、そこで生きる我々の在り方へと、フォーカスされるテーマが移り変わっていく。「カイコ」はまさにこのことを体現している楽曲だろう。もっともこの変化というのは、RADWIMPSもまた人間の集団であり、変わりゆくこの世界に生きている以上必然ではあるのだが、興味深いのは《原発》という具体的な名詞が登場する「あいとわ」においても、その傾向を外れないということだ。「カイコ」と「あいとわ」と「春灯」は、震災という史実を描いた「白日」と「ブリキ」と比較した時、震災というものとの距離感が少しズレる。震災はより概念的な存在として曲中に翳を落とし、引き換えに直接的な痛みを伴う描写は多少減った。生傷がやがて瘡蓋になり、痕だけが残っていくかのように。その遠因を当事者意識の多寡によるものだとも言い換えられなくはないが、これは決して正確ではない。何故ならRADWIMPSは、常に当事者であり続けることを矜恃としてきたからだ。そこで(ここからは解釈の域も出て、もはや完全な想像でしかないのだが)、思うに野田はこの時に、"被災者"という当事者意識を脱ぎ捨て、新たにこの"世界"の片棒を担ぐ一員としての当事者意識を獲得したのではないだろうか。多寡ではなく、軸の変化で捉えることで辻褄の合う部分が多い。大地震を経験し、圧倒的な理不尽と対峙した。その一方で自分は直接何かを喪ってはいない。彼の口からはそんな葛藤が様々なメディアで度々語られていた。みんな大なり小なり"被災者"なのだとも思う一方、その差異を生半可に埋めようとする不誠実さを誰よりも知っていた。そんな中でこの葛藤が、ひとりひとりにとって重みの違う震災・被災者の視点ではなく、つまり自分たちを軽度の"被災者"としてではなく、より普遍的な"世界"の一員として自覚することで、自らが背負える荷物の重さを増やした。そのことが、世界に生きる中で平等に与えられた不平等のひとつとして震災の痛みを捉え、目を向ける契機になったのではなかろうか。その意識の変化が、「カイコ」という寓話を生み、「あいとわ」で愛を礼賛し、「春灯」に幸福を見出すまでに至る脳内革命であったのではなかろうか。「カイコ」の時点ではまだ、この2つの意識の過渡期にあるという印象だが、「あいとわ」においてはこの意識が、《原発》《自爆》という強烈な単語を、事実のひとつとして受け止められるだけの受け皿を作っているように思える。だからこそ「あいとわ」は普遍的であれたのだ。種明かしをすると、今後RADWIMPSにとって3月11日というその日は、慣習的な表現で言うと、目的から手段へと姿を変える。この日を忘れない為に曲を作り始めたのがいつしか、忘れられないものと向き合うためのにこの日を選ぶようになっていく。無論だが震災を想い、命を悼むという本質は変わらないが、それでも震災発生から5年の間に、RADWIMPSの紡ぐ楽曲は震災という一事象のアウトラインをはみ出して、世界というものを捉え始めたのだ。改めて述べると本稿が追う足跡は、その変化の一部始終である。

2017年:発表曲なし


2017年、2012年から続いてきた新曲の発表が初めて途切れた。しかし、繰り返しのようだが、これでいいなと思っていた。2016年に「春灯」の発表と共に提示されていた、来年以降曲を作らないという可能性。先に引用した2016年3月11日のWIMP'S REPOで語られた、

"来年以降も曲を作るかはわかりません。当たり前にやるかもしれません。"

という言葉は、次のように続く。

"ただ3月11日の、あの悲しみだけを切り取って一つの作品を作ることに少しずつ、違和感が生まれてきました。/どの楽曲にも、含まれているように思うからです。/逆にこの5年の間にも悲惨な事件、事故、大きな喜び、様々ありました。/そしてそれらに常に影響されながら音楽を作っています。/すべて混ざり合って「今」を生きている自分の音楽になっています。"

2016年の項では敢えて記載しなかったが、同年の4月14日には熊本で大規模な地震が発生した。崩れた熊本城の光景を映像などで見て覚えている人も多いだろう。RADWIMPSはこの際も音楽を通じて支援に乗り出した。4月28日にはONE OK ROCKのTaka(Vo.)と野田が2人で歌う、RADWIMPSの楽曲「バイ・マイ・サイ」の音源をチャリティーソングとして配信。10円〜100,000円まで段階的に分けた寄付額を支援者各々の判断で楽曲に支払い、その収益が被災地に寄付されるという形式をとったものだった。その他にも、2016年は1月の初頭にISによるイギリス諜報員の公開処刑動画が公開されたことや、世界中でのテロの多発など、野田にとって "心がかき乱される出来事があまりに立て続けに" 起こったのだと、後に語られている。しかしこれは何も2016年に限った話ではない。2015年のフランスでの銃乱射事件、2014年にはロシアによるウクライナへの軍事介入、大きく取り沙汰されたものだけを数えてもこんなものでは済まないが、それすら氷山の一角に過ぎない。普段見える距離にたまたま無かっただけで、世界は常に悲劇だらけだったのだ。そんな中で野田の意識は徐々に "あの震災だけを切り取って曲を作るということが、すごく腑に落ちなく" なっていく(出典:朝日新聞『(東日本大震災10年)被災地へのラブレター ミュージシャン・野田洋次郎さん』)。この傾向は実は2015年の時点で公に語られている。先程も引用したMUSICA vol.97の単独インタビューの「あいとわ」にまつわる話の中で

"(3月11日に公開する曲は)いつも1年かけてその曲を作ってる感じ/前年の3月11日の時期にふと浮かんだ何かを1年後に発表するっていうか/その時期に一番自分の感度が世の中に向いて、その時に受け取ったものだったり考えたことだったりを1年間育てて、翌年出すっていうような感覚"

"世界中見たらいつだって災害は起きてて、悲劇は起きてて/それはしょうがないって開き直るしかない部分もあるけど"

"だから震災だけに特化してっていうことは、ちょっと俺の中で変わってきたんだと思う。3.11っていう日が、自分にとっては世界と睨み合うというか、世界と目を合わせて語り合う日になってきていて。"

"この1年で起きたこと、自分に近いところも遠いところもちゃんと反応していたいから。"

という内容が記録されているのだ。これは僕が実際に発表されてきた楽曲にも変化として如実に反映されていると感じてきた部分でもあり、この発言がされた時点で野田の中にある種は、翌年に「春灯」という形で発芽、もとい発露したのだろう。果てしなく遠い世界のどこかから、自身の半径2mの世界へと。そしてそこに文言として、震災というファクターだけを切り取る行為に対する違和感の提示を伴って。そこには或る意味で必然性も感じられる。そして2017年、実際に、新たな楽曲が発表されることはなかった。くどいようだが、それでいいと思わせるだけの根拠が、救いが「春灯」にはあったのだ。この時点で僕は、RADWIMPSと3月11日との関係性にひとつのピリオドが打たれたものと認識している。もう「春灯」以上のものは書けないし、書く必要がないのだと。撒きたい種はもう撒き終えたのだと。

"「春灯」の前くらいから洋次郎と「いつまでやるのか」という話は出ていたんです。もちろん被災地の人たちはまだまだ復興も半ばで、何かが終わったわけでもないし、終わるわけもない。その葛藤が僕にも洋次郎にもずっとありながらも、「春灯」の映像はある意味では区切りのような気持ちで作りました。色々な人に5年前のあの日を振り返ってもらう内容で、「5年も経った」と思う人もいれば、「5年しか経っていない」と思う人もいて、僕自身の整理しきれない気持ちも含めて、真っ直ぐに伝えようと思いました。"

これは、2020年3月12日にRADWIMPSの公式HPに掲載された島田大介氏のインタビューからの引用だが、これを読んでもやはり、「春灯」は音楽の面でも、映像の面でも、ひとつの区切りであり、到達点という認識であったことが伺える。
しかし翌年、思わぬ形でRADWIMPSと3月11日の関係性は新展開を迎える。

2018年:「空窓」


2018年の3月11日。この日も前年同様、新曲は発表されないものかと思われた。しかし3月12日 0時28分(3月11日 25時28分)、野田のTwitterが更新される。その内容とは、

というものだった。
この後しばらくの間に渡り、野田のTwitterにて、RADWIMPSがレコーディング中である旨が何度か発信されたが、この新曲のことであったと見て間違いないだろう。
そして、件のツイートから1ヶ月足らずの時間が経過した、2018年4月8日、YouTubeで新曲が公開される。「空窓」である。

この時に添えられた文章の冒頭ではこう語られている。

"あれから7年が経ちました。/今年も曲を作りました。/3月11日には間に合わなかったのですが、今日発表します。/曲名は『空窓』です。"

"昨年、福島県立浪江高校は3月31日をもって休校しました。/その最後の卒業生の生徒さん達から文章を受け取りました。/今年はそれを元に歌詞を書きました。"

映像は、2018年3月11日の空を映したもので、先の島田氏のインタビューによれば、

"2018年に突然、洋次郎から「もしかしたらやるかも」と連絡が来たんです。正式な連絡がないままに11日になったんですが、念のため僕は、その日の空を撮っておいた。そしたら後日、「やっぱりやることになった」ということで作ったのが「空窓」です。"

という経緯とのこと。この話を読んで、この曲のためにこの映像が遺ったのは、2人のお互いへの理解の賜物だとしみじみ思った。
さて、2017年3月31日を以て休校となった福島県立浪江高等学校の、最後の卒業生にあたる生徒達から受け取った文章を元に歌詞を書いた、とあるが、この「空窓」で歌われるのは、被災地を離れ、遠い土地で生きている人々の想いだ。

《時が僕らを大きくするけど 時は僕らをあの場所から遠ざける》

というサビのフレーズが非常に印象的だが 、この曲が成し遂げた"あの日"から"今日"まで、そして"これから"の日々を地続きに捉えようとする行為に際し、この限りなくドキュメンタリー的な視点は、"被災"という当事者の言葉なくしては綴られることのなかった類のものではなかろうか。そういう側面も鑑みて、この「空窓」はやや異端な曲だ。便宜的に言葉にするのであれば、これはRADWIMPSの中から生み出された曲ではなく、被災者の経験という原石からRADWIMPSによって削り出された曲だ、と言ったところか。「白日」〜「春灯」までと同様に、"震災"から切り離して聴くことのできる曲ではまだない、寧ろこれまでのどんな曲より"震災"というものの爪痕を詳細に描いている。ノンフィクションと言っても差し支えない程に。しかしそれが故に、野田洋次郎、或いはRADWIMPSにとってフィクションの要素が生まれてしまう。さながら"空想"であるかのように。邪推だが、野田が「空窓」の読み方を"そらまど"だと限定しなかった(と言うより"くうそう"と読む事に何らかの意味があると示唆した)のは、歌詞の《あの人とあの時》に帰れたらという《僕》の"空想"というよりは、こちらの側面を示しているように思える。要するにRADWIMPSが描いてきた世界の中に間違いなく存在しているものではあるが、RADWIMPSの目線で切り取られた世界ではない、という点でこの曲は他の楽曲と一線を画すのだ。
しかしとはいえ、その意図なんてものは瑣末なことで、この曲の意義は全て、

《僕はどうやら強くなった 弱さが何かは知らないけど/心の蓋仕方を知っただけかも でもそうでもしないとやってこれなかった/だけど今日だけはこの蓋を 開けてあなたに 会いに行く》

という最後の歌詞に集約されていく。それが松明の灯りのように伝播していくことがこの曲の本意なのだとすれば、RADWIMPSの撒いた種は必ず何処かで咲いていると僕は確信できるのだ。

2019年「夜の淵」


2019年の3月11日 PM2時46分、YouTubeにて「夜の淵」が発表された。

この曲の原型は2018年9月6日の夜、北海道で起こった地震とそれに伴う停電の中、SNSを通じて届いたリスナーからの数々のメッセージに応える形で、野田のTwitter及びInstagramに投稿された"子守唄"である。

後の11月17日にも、"子守唄の続き"と称して、サビにあたる部分の弾き語りが投稿されている。

恒例のWIMP'S REPOには、

"東日本大震災から8年が経ちました。/そしてこの8年の間にまたいくつもの災害、悲劇がこの国を襲ってきました。/昨年は北海道、関西での地震、西日本での豪雨など例年以上に災害が多発した年でした。/昨年地震が起きた夜、停電で真っ暗な中SNSなどで恐怖と闘いながら朝を待つたくさんの声を受け取りました。/あいも変わらず何もできない自分にもどかしさを感じながら、/せめて子守唄に、ほんの少しの心の安らぎになったらいいなと思い今回の曲を作りました。/そこにさらに歌詞を加え、編曲し、レコーディングしたものが今回の曲です。"

と記された。
身も蓋もないが、それ以上でも以下でもないだろう。様々な災害に襲われた日本。その中で、ただ何処かで震えている誰かが安心して眠れるよう、その切なる祈りだけが込められた、温かく優しい曲。停電で真っ暗な夜の空には、きっといつもは見えない星の姿までもが輝いていたのだろう。見えなくてもある。見えるのに遠い。善し悪しの話ではない。その不思議なバランスと距離感を紡いだ言葉に、1人でも安らかな寝息を重ねることが出来たのなら、この曲はそれだけでいいのだ。
しかしこの「夜の淵」から、RADWIMPSにとって3月11日という日付けが持つ意味は大きく変化している。後ほど纏める。

2020年「世界の果て」


2020年3月11日 PM2時46分、ここまで紹介してきた『糸色 -Itoshiki-』の楽曲の中でも一際異彩を放つ楽曲が発表された。タイトルは「世界の果て」

打ち込みのビートをベースに、ピアノの伴奏とディストピアな世界を捉えた閉塞感漂うリリックが乗る。一言で言うならば、サウンド面でも、テーマの面でも、重苦しい空気を纏っている。
「世界の果て」に添えられた文章は

"期せずして2020年3月11日現在、世の中はウィルスという社会的危機の中にあります。/情報が氾濫し、歪んだ感情も溢れているように感じます。/人々の姿こそウィルスよりも脅威に感じる瞬間があります。/何かのキッカケで一気に崩れ落ちていってしまうのではないか、そんな緊迫感があります。"

"それでも、それだからこそ今年も変わらずあの3月11日に想いを巡らせ、そこに『今』の空気を混ぜて一つの曲にしたいと思いました。なるべく素直に、思いのままに作った結果今年はこのような曲になりました。/絶望感がありながら、どこかそれは懐かしく優しいものに自分は感じたのです。/色んな声があると思いますが、受け取ってもらえたら幸いです。"

という内容だ。
新型コロナウィルスによる疫禍の中、不安や恐怖、苛立ちに満ちた世界を描く中で野田が掘り出した"懐かしく優しいもの"の正体は、正直に言うと僕にはまだ共感的な理解が出来ないものだ。なので構造的な理解に基づいて話を進めると、震災にパンデミックと、一生に一度あるかないかの絶望に何度も直面してきた我々は、その度に大切なものを再確認してきた。例えこの世界はもう疲れきった姿で、始まりの時のように盛大な 最後のお祭りは既に始まっていて、あとはもう壊れるだけの"果て"まで辿り着いていたのだとしても、そこに立ち返って今一度《君》を見つける心積りができたのなら、この世界の果てさえ生き抜いて再会できるということなのだろうか。まだ知らぬ未来には強さが、懐かしい過去には優しさがあるということなら、《ワンダーランド》で見つけた《君》に優しさと懐かしさを見たということか。
このまとまりのなさを見てもらえば一目瞭然だが、この曲は僕にとって不可解な点が多く、実はまだ完全に咀嚼し切れていないのだ。この不可解さ、違和感を共有した知人がこの曲について触れた記事があるので、そちらのリンクをここにお借りする。

東日本大震災に新型コロナウィルス感染症。2つのテーマに跨る性質上、非常に取り扱いの難しい曲だとは思う。しかしただひとつ、前年の「夜の淵」に続いて明確に言えることがあるのだ。

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中書き2

2019年の「夜の淵」の発表に伴い、RADWIMPSにとって3月11日の持つ意味が明確に変化した(正確には、変化しきった)、と僕は考えている。前期の楽曲と比較した時、この後期にあたる楽曲を読み解くと、この記事でも既出だが、つまるところ、"世界と睨み合う/世界と目を合わせて語り合う日"という意味合いが、東日本大震災が起こった日という以上の意味を持つようになったように見える。それ故に、「夜の淵」と「世界の果て」は、それぞれ独立した別のテーマを内包しており、震災から切り離しても曲として成立するとさえ言い切れる。そのからくりは、震災が起きた世界の上で、今も変わらずRADWIMPSが歌い続けているというところにあると僕は考えている。本当に言うまでもないが、一応、念の為に記しておくと、東日本大震災が起こった日という意味が無くなったというわけではない。寧ろ、それがあるからこの3月11日という日付けはただの記号ではなく、特別な日であり続けるのだから。要はその占めるウェイトの推移の話だ。震災という一事象ではなく、この日本で、世界で、横行する理不尽に、不条理に、真っ向から対峙する中で生まれた曲を、ひとつひとつ、宿題の答え合わせのように紡ぐための日。それがRADWIMPSにとって3月11日なのだ。そしてこのことが、前記した目的の手段化の全容である。先の「世界の果て」の項で触れた違和感はここに起因する。白地な形で震災を彷彿とさせるエッセンスが、コロナウィルスによって変化を強いられた世界を歌う曲に、その映像に、散りばめられている。この曲が出来上がった経緯を考えれば内在されて必然のテーマではあるが、質的に考えた時に必ずしも必要ではないかのような、言うなれば"必然性"と"必要性"との間に矛盾が生じるのだ。それについてはまだこれからも個人的に解釈を発展させていこうと思うが、このようにRADWIMPSと3月11日との関係性は「白日」から「世界の果て」に至るまで、年月を経て、時代とともに、世界とともに、人々とともに、徐々に変化を続けてきた。このことを"風化"だと囃し立てて後ろ指さすのは、少なくとも思慮深い者の行為ではないだろう。その理由はRADWIMPSの音楽と、野田が発信し続けた言葉の中にちゃんと示されている。

2021年:『2+0+2+1+3+1+1= 10 years 10 songs』、「かくれんぼ」と「あいたい」

2021年。震災から10年目という大きな節目の年である。
RADWIMPSの歩みとしては、この記事の冒頭で触れたように、2012年以来、3月11日に発表されてきた楽曲がアルバムとしてリリースされることが発表された。題して『2+0+2+1+3+1+1= 10 years 10 songs』(テンイヤーズ テンソングス)。発売日を3月11日に合わせられたこのアルバムの売り上げは全額、日本赤十字社や自治体へ寄付され、自然災害などの支援活動に充てられることがアナウンスされている。かつて知人と「糸色の楽曲、10年ぐらい経った頃に売り上げを寄付金にするみたいな名目でパッケージ化してくれないかな」なんて会話をしていたが、いざその時が来たと思うと感慨深いものだ。実際に、『ラリルレ論』では、

"(前略)丸10年。その時には一つの答えが出てる気がする。宿題に対する一つの答えが。この国の、僕の、この国に生きるすべての人の、あなたの、世界の。"

という記述があったりだとか、2020年の「世界の果て」発表時のコメントの中でも

"来年は震災から丸10年。一つの節目となります。/この国で10年間歳を重ねてきた僕たち自身への一つの投げかけにもなる年だと思います。/「あれから、僕たちはどう生きたか」 そんな問いに、まっすぐ眼を見てこたえられるように、生きようと思います。"

と語られていたりするが、やはりこの10年という期間はとても長く、重い。暦の上の区切りなんて何の意味も持たないという主張の人もいるだろうが、小学生の半分が成人するほどの時間が経ったのだ、何か一つの結論を導き出すには充分な時間だと言って差し支えないだろう。無論、10年経って自動的に復興が完了するなんてことはなく、今尚あらゆる形で被災し続ける人がいることを軽視するわけではない。そういう意味で、意味があるか/ないか、ではなく、意味を見出すことが出来る、という点が重要だ。RADWIMPSにとって、この10年の月日は、自分たちの投じてきた一石一石を精査する、一旦の総決算の時なのだ。その為とあってか、新たに作られた2曲は、改めて震災というものの爪痕を深く見つめ直し、そこから切り離せない形で意図的に描かれている。しかしながらやはりそのアプローチはドキュメントとは異なるものになっているように僕には感じられた。

2021年に新たに作られた曲のひとつ、「かくれんぼ」は、3月6日に放映されたNHK 東日本大震災 10年特集ドラマ『あなたのそばで明日が笑う』(出演:綾瀬はるか、池松壮亮、他(敬称略))の主題歌として書き下ろされた。主人公が心の奥底に沈めている感情に寄り添うような音楽を届けてほしいと北野拓プロデューサーがRADWIMPSに主題歌をオファーしたという経緯らしい。野田はこのドラマと新曲に向けて

"被災した方、大事な人を亡くされた方、生活が一変した方々にとって10年というのはただの記号にすぎないと思います。直接被災することのなかった僕ら自身この10年、あの震災とどう向き合ったらいいのだろうかという葛藤の10年でもありました。その中で唯一できることである音楽で毎年、発信を勝手ながらさせてもらってきました。"

"今回頂いた脚本の中のいくつもの言葉が胸に響きました。僕たちの知り得ない本当の声のように聴こえてきました。それらをたよりに音楽を作らせて頂きました。"

と語っている。また、オファーした北野氏からは次のようなコメントが寄せられている。

"野田さんが震災をテーマに作られた楽曲を聴き、その根底には人と人が思いやることの尊さ、人の愛を信じる強さ、世界を包み込む優しさがあると感じていました。今回、かなしみを抱えて生きる人の背中をそっとさするような物語を目指すにあたり、そうした力がドラマに必要だと思い、オファーをさせて頂きました。"

"後ろを向きながら前に進むことを肯定したいというこちらの想いを汲み、過去と現在の二つの時間を生きる主人公にどこまでも寄り添った楽曲を書き下ろしてくださいました。希望や復興といった言葉では表せないものがそこには宿っていました。"

『あなたのそばで明日が笑う』は、"宮城・石巻市を舞台に行方不明の夫を待ち続ける女性と震災を知らない建築士が出会い、心を通わせていくラブストーリー"だとアナウンスされているが、この構図は、RADWIMPSがこの10年を通して被災した人々を想う中で構築してきた関係性と重なるように思えてならない。野田はきっとそこに自分たちの覚悟を投影してこのタイアップに臨んだのだろう。

そして来たる3月11日、2011年から10年経ったこの日、アルバムの発売とともに最後の収録曲「あいたい」が、島田氏の手掛ける映像と共にPM2時46分、YouTubeにて公開された。

少々長くなるが、「あいたい」に併せて発表された野田のコメントをここで全文引用したいと思う(内容は「かくれんぼ」に寄せられたコメントと完全に一致する部分もあるが、敢えて省略はしない)。

"今日で、東日本大震災から丸10年が経ちました。/今年も曲を作りました。『あいたい』という楽曲です。あの震災のことを想い、離れ離れになったいくつもの気持ちを思い描きながら出てきた言葉は、期せずしてこのコロナ禍を生きる僕たちにも通じる想いとなりました。"

"被災した方、大事な人を亡くされた方、生活が一変した方々にとって10年というのはただの記号にすぎないと思います。直接被災することのなかった僕ら自身、あの震災とどう向き合ったらいいのだろうかという葛藤の10年でもありました。その中で唯一できることである音楽を毎年、勝手ながら発信させてもらってきました。"

"「この10年間どんな想いで毎年楽曲を発表され続けてきたのですか」/一つの節目を前にこのような質問をされることが増えてきました。そのたびになぜだろうと自問しますが、一向にわかりません。あの大きすぎる経験を忘れたくないから、風化させたくないから、被災した方々に少しでも寄り添っていたいから、いつかまたやってくる大震災に少しでも備えるきっかけとなってほしいから、ただ自分で自分を満足させたいから。どれも正解なようで、どれも的外れな気がしてきます。"

"人が誰かを好きになるのに理由はありません。後からいくらでもそれらしい言葉は並べられるけど、それらはあくまで後付けのもののような気がします。理由や理屈から離れたところで人の根っこというのは動くのだと思います。/この10年間の楽曲というのは僕にとってラブレターのようなものだったのかもしれません。返事のこない、一方的に書いたラブレター。毎年3.11が近づくと僕はなぜだか無意識にギターやピアノに向かい、あの日を、被災した人々や土地を想い、歌詞を書き、メンバーやスタッフや島田さんに声をかけ、楽曲にしてきました。ある時は悲しみ、ある時は慈しみ、ある時は苛立ちや絶望に感情が振られたこともありました。でも良いも悪いも、人間はずっと同じ感情ではいられません。その仕組みを最大限生かして、未来になんとか希望を繋げて生きていきたいと強く願っています。"

"この新型コロナウィルス、COVID-19をくぐり抜けた先にはどんな未来が待っているのでしょう。大震災と同様に、大きな困難は時に人々の間に軋轢や摩擦、歪みを生み出します。時に分断や対立が生まれ、僕たち人間の本性があぶり出されることがあります。世界全体が、少しずつギシギシと音を立てて傾いていくように感じてなりません。こういう時だからこそ、手を取り合って生きていきたいです。"

"今回、毎年3月11日に発表してきた楽曲に「あいたい」「かくれんぼ」の2曲を加えた10曲を一つのアルバムにまとめました。この楽曲たちを聞き返しながら改めてこの10年という歳月を振り返る作業にもなりました。僕はあの日から今日まで、ちゃんと生きてこられたのだろうか。僕自身が今日まで生き続けるに値することを、どれだけできただろうか。答えのない自問自答を繰り返します。きっとこれからも、答えのない「途中」を、もがきながらその時々の答えを出しながら生きていくんだと思います。/これを聴いてくださる人たちにとってもこれまでの歳月を振り返り、そして未来を考え、ほんの少しでも希望を抱けるきっかけとなるアルバムだったら幸いです。"

"最後に、東日本大震災で亡くなられたすべての命に、被災したすべての方々に、合掌。"

洋次郎

これが野田の、RADWIMPSの、10年間を費やして導き出された一つの解答なのだ。正解か不正解か、善か悪か、という話はこの際 度外視で構わないと僕には思える。
野田の言葉の中に"ラブレター"という印象深い単語が登場した。震災から10年の節目を迎えるに当たり、10年間、震災に向けて曲を送り続けたRADWIMPSの姿にもスポットライトを当てられる機会が多少なりとも増えたが、既に発表された幾つかのメディアの中で"ラブレター"や"恋文"という言葉が見出しに使われるなど、目を引くこの言葉がとりわけフォーカスされていたように思う。個人的には、当初はこの言葉が選ばれたことに若干の違和感を覚えた。"手紙"ではダメなのだろうか、そこに恋愛の機微が果たして必要なのか、と。しかしこの「かくれんぼ」と「あいたい」を聴いて、成程これは"ラブレター"だ、と思ったのだ。これは決して恋愛的なニュアンスを伴って描かれることが正しい、という主張ではない。もう会えない誰か、帰れない何処か、戻れないいつか、それに対して身が裂ける程の想いで焦がれることを止められないのなら、どんな形であれそれは恋であり、愛なのだろう。「かくれんぼ」は女性の一人称で、「あいたい」は男性の一人称で、それぞれがもう会えない人を歌っている。「かくれんぼ」では、《あなた》を人生かけて探し続けるという《私》の決意が掲げられ、「あいたい」では、《君》に只管"あいたい"と願う一方で《これを超える気持ち》とはもう"あえない"と知り、"あいたくない"とも何処かで思う《僕》の独白のように綴られる。RADWIMPSがキャリアを通して楽曲に内包し続けてきたテーマのひとつとして、恋愛は時に死生以上のウェイトを占めたが、野田の精神世界の法則と、震災から地続きの実存する世界の構造が、3月11日という座標で重なった結果、10年の歳月を経て"あいたい"という至極シンプルな言葉が、衒いもなく、心の底から零れ落ちたのだ。

総括

以上が、僕が見続けてきたRADWIMPSと3月11日の関係性の変遷とその解釈である。最後にひとつ、『2+0+2+1+3+1+1= 10 years 10 songs』にてリレコーディングされた「白日 -10 years ver.」について触れておきたい。かつて「白日」は圧倒的な理不尽と、その責任の所在を問う形で極めてドキュメンタリーな形で作られた。その歌詞の中には《そもそもこの声はさぁ/ねぇどこに向かって歌えばいい?》という、震災という極めてセンシティブなファクターを切り取ることの是非、その葛藤のようなものも含まれていた。新たにレコーディングされ直した「白日」には、最後に一言だけ新たな歌詞も加えられている。

《交わしかけの約束は 誰と果たしたらいい?/そもそもこの声はさぁ/ねぇどこに向かって歌えばいい?》

《全ての今までの 喜びが嘘になっても/戻らない君ならば せめて出会えたこの喜びを》

《降れ》

と。
この記事を執筆している段階(2021年 3月13日 13時台)でまだ明言されているわけではないが、恐らく来年は3月11日に新たな楽曲が発信されることはないだろうと思う。何食わぬ顔で発信されるかもしれないが、個人的にはないだろうと感じている。「春灯」の時と同様に、もう続きがなくてもいいと思えるだけの形にRADWIMPSの想いは結実したと心底感じたのだ。願わくはこの想いが、願いが、祈りが、ただ"降る"ように広く優しく届いて欲しいと思う。

また、現時刻から見て今夜、22時55分〜23時30分にNHK総合で放映される『3.11 10年 そしてこれから』に、箭内道彦氏との対談形式で野田が出演することが決定している。そこで語られる内容によってはこの記事がまるで意味を成さない、てんで的外れなものになるということも可能性としてないわけではない。しかしそれでもここで自分の考えを一度、纏めておきたかったのだ。釈明するとこれは元来、読者に向けた読み物というより、僕の独り語りであり、それ故にこのnoteというメディアを選んだ側面もある。したがって、冗長、支離滅裂な所も多くあったとは思うが、ここまで目を通していただけたのなら、ただただ、感謝申し上げます。御付き合いいただきありがとう。

猫背

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