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にんちゃん母との暮らし②【認知症という病気】

待ちに待った母の入院の日がやってきました。
朝から雨が降っていてすごく寒い朝でした。
朝の新宿はアプリを使ってもタクシーが中々捕まらないので結局二人で歩いて東京医大に向かい、病院近くの吉野家で母は大好きな鮭の朝定食を食べて入院しました。
手術は入院して次の日です。

母に「明日の手術がんばってね!」っと声をかけます。
母は少し怖そうなそぶりを見せてはいますが、口癖の
「なるようになるさ!」っといい笑っていました。
そして面会時間もおわり看護婦さんに
「よろしくお願いします」と声をかけ病院を後にしました。

病院から自分の仕事場までは10分程度なので歩いて帰りました。
事務所について一息つくと、、、
いつもはあまり鳴らないスマホが突然鳴りだしました!
見たことない番号でしたが出てみると、、、
「東京医大の看護の者ですが、お母様が暴れてしまい申し訳ないのですが病院へすぐに来ていただけますでしょうか?」とのことでした!

すぐさまコートと必要な最低限のものを持って東京医大へタクシーを拾い向かいました。
すると母は大部屋ではなく看護センターの前の大きな個室に移動していたのです!

おそろしく広い病室に移動となってしまいました。。。

看護婦さんから
「当直の人数が少ないので可能でしたら今日は病室に泊まって頂けますか?」と言われたので、
「はい、大丈夫です」と答え病室に泊まることになりました。
すると母のベットの横に簡易ベットを用意してくれ自分は仮眠を取りながら母の介護をすることになりました。


手術日当日、朝妹も駆けつけてくれて前の方の手術が早く終わったこともあり、予定より1時間早く手術となりました。

「お母さん、がんばってねっ!」と二人で声をかけベットに寝たまま母は手術へ向かいました。
とりあえず手術で癌が転移していないことを祈るばかりです。。。


しかし手術終了時間になっても母は出てこなく、なんかあったのだろうかと心配でした。。。
妹は家のやるべきことがあるそうで先に帰ると言い結果を連絡してと家へ帰っていきました。

手術は予定より1時間近く遅く終わり先生がやってました。
ちょっと何かあったような雰囲気でしたので覚悟して話を聞くと、、、


「手術は無事終わりました、転移もしていなく癌はすべて取り除けました。」とのことでした。

えっ?! 雰囲気的に何なあるような感じだったのに、、、

まぁよかった~、本当によかったと少しホッとして椅子で休んでいると、
母がベットで眠ったまま病室へ戻ってきました。
声をかけてもまだ麻酔が効いているので返事がありません。
手術後胸から血を抜く管とトイレの管が出ていました。
そして、母は麻酔から目が覚めると
「ここはどこ? 伊勢丹じゃないの? トイレに行きたいからどこかな?」っと意味不明なことを言い出していました。
トイレは管が入っているのでそのままトイレはできるようになっています。

母は傷が痛いらしく、「痛い、痛い、もうこんなに痛いなら死んだ方がいいっ」っと言って苦しそうでした。。。

手術前に担当の先生からは
「認知症の方が手術を受けると認知症の症状が進行することが多々あります。」と言われていたことを思い出しました。
しかし、手術でそんなに認知症が進むとは思えないと素人考えで大丈夫だろうと思っていたのですが、、、

妹が来てくれる時間だけ事務所に戻り仕事をしてノートパソコンを持って続きの仕事を病室でしながらの看病となりました。

そして術後の経過が問題なく進み、ついに退院できることになりました!
久しぶりに新宿の家へ戻ってくると、、、想像もしていなかったビックリすることが多々起きてしまうのです。。。😢

手術の前にはく弾性ストッキングは血栓症の予防策として血液が淀まないように静脈瘤や静脈血栓、リンパ浮腫などの予防・改善のほか、手術時の血液循環によるトラブルを防ぐためにはくのだそうです


手術から2週間がたって先生からもデイサービスに行ってもいいですよ言われデイサービスに通うのを再開しました。
しかし、今までは帰ってくると1人でマンションに入って
「帰ってきたよ~」
の電話をくれていたのですが、オートロックのマンションに入れなくなってしまって電話がかかってくるようになりました。
手術前はオートロックのマンションでも一人で元気に出かけてしまっていたのですが、マンションの出入りができなくなってしまったのです。

そして、ごはんは朝母の部屋に行って作って食べさせ、作り置きをして冷蔵庫に入れて電子レンジでチンして食べてねっと食事を用意していたのですが、電子レンジの使い方がわからなくなってしまって冷たい作り置きのごはんをそのまま食べ、当然舌の肥えている母はおしくないものは食べないので食べ残しが机の上に置いてあるという状況になってしまいました😢

こうなってくると、食事も毎回温めに行って食べさせなくてはならなくなりました。
結局手術後母は、認知症が急速に進んでしまい1人では生活できなくなってしまったのです。。。
こうなると少しでもわからないことがあると電話が頻繁になるようになります。

仕事で打ち合わせしているときに電話が鳴ると、電話に出て
「ちょっと仕事しているから終わったら電話するねっ!」と言っても、すぐに忘れてて電話がなり、続けて20回以上電話が鳴るなんて日もざらになってきました。
このやりとりが続いてしまうのでクライアントも気を使って早めに帰ってしまいます。

母はとうとう今日が何日か、今何時かがわからなくなってしまったので眠くなったら寝る。
起きたらテレビを見てお腹がへったらごはんを食べるという自由気ままに生活をするようになりました。
こんな状態で仕事と介護の両立をしていると長く睡眠をとるということができなくなり、日々寝不足の状態が続くことになりました。
周りからは
「顔が死んでるけど大丈夫?」何てことを言われるようにもなりました。

そしてついに認知症の母にイライラしてしまい怒ることも何度かしてしまいました。
認知症の母を引き取るときに自分なりに認知症について色々調べました。
認知症の人には怒ってもいい結果は出なく、同調して介護をしていかなければならないということをわかってはいたのですが、、、
さすがに頻繁に同じことを繰り返してしまう母に対して我慢する感情がおさえきれなくなり怒りたくなってしまうのです😢

怒ればすぐに母は逆切れを起こし、
「あんたとは住めないからここからは出ていく!」と言って口もきいてくれなり寝てしまいます。
しかし、一晩寝ると喧嘩したことも忘れて
「おはよう~!」って挨拶をするのです。

こんなことが2~3回続いてさすがにどうしていけばいいか深く考えました。
母は自分が介護しなければ1人では生きていけません。
デイサービスに行っても、なくさないように外していった指輪を誰かに取られたと言って問題を起こすことも何度か起こりました。
結局10分前の記憶すらなくなってしまうので、言ったことを理解して今後生活してもらうことは不可能ということです。

例えば、ドアは開けたら閉めてねっと言って、「了解」とその時は言っても次にドアを開ければ開けっ放しなのです。
色々一緒に生活して感じたことは、昔の習慣が基本に行動をしています。
母のような認知症の人は新しく覚えたことや教えたことは繰り返し行動することはできないと思った方が当たり前なのです。
必ずしもそうでない方もいると思いますが、母はほぼこのように考えて介護していかないとイライラしてします。
できないことが当たり前。
そう思うのが正しい事だと自分に言いつけることが大切なのです。

しかしそんなことを繰り返していると、もう一緒に死んでしまうなんてことも考えてしまいました。
しかし、母には散々迷惑をかけれてきた自分としては、母が亡くなるまでは恩返しとして何とか面倒を見ていくのが義務だと思い、考え方を180度変えて一緒部屋で日々生活をし、仕事と介護を両立した環境にならないと今後は生きていけないのだという考えにたどり着きました。
そして住み慣れた都会を離れ知り合いの所有している今は営業をしていない旅館に引越しすことにしたのです。

自分の知り合いの社長さんはおととし亡くなった認知症のお父さんの介護をしてきた方です。
社長さんからは母を引き取った時に、
「これから戦争になるから頑張らなくてはダメだよっ」って言われていました。
介護の大変さは人一倍理解している方なので、今になってその言葉の重みを痛感します。。。
そしてせめてもの好意で引越しを進めてくれたのだと思っています。

こうして、母が来るまでは絶対に田舎に引越しすることなど1mmも考えていなかった自分が、歩いてコンビニまで20分もかかり、近所にはお店が1件もない田舎の休業中の旅館に引越しすることになったのです。。。


この続きは次回にしようと思います。

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では、また『 にんちゃん母との暮らし③【認知症という病気】』で記事を書きたいと思います。

読んでくれてありがとうございました。

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