「こうあるべき」と「こうありたい」の違いについて

反応しない練習を再読しました。仕事や趣味でもこうあるべきと考えてしまいがちだなと思って自分なりの考えをまとめました。

こうあるべき

(抜粋)
「 自分 を 認め て ほしい」 ─ ─ 注目 し て ほしい・愛し て ほしい・評価 し て ほしい ─ ─ という 承認 欲 です。欲からくる執着から判断されたもの、「こう で なけれ ば」 という、 自分 の 人生 や、 相手 への 期待 も、 それだけ なら ただ の「 判断」。 それ は アタマ の 中 にしか 存在 し ない から「 妄想」 です。

「こうあるべき」は自分の中には正しさがあり、それを他人にも自分にも強制しちゃってる、囚われているってイメージがあります。です。 人 は「 相手 は 自分 と 同じ 考え の はず( 同じ 考え を 持てる はず)」 と、 心 の どこ かで 思っ て いるものですが、この 期待・思い込み は「 妄想」でしかありませ ん。何を正しいと判断するかは人それぞれ、またその人の所属する環境で違うから。

こうありたい

(抜粋)
仏教 が 目指す「 正しい 理解」 とは、 逆説的 な 言い方 になり ます が、「 正しい と 判断 し ない」 理解 です。 そんな こと より「 真実 で あり、 有益 で ある」 こと の ほう が 大事 では ない か、 と 考える の です。
「方向性 を 見る」 とは、 仏教 の 中 の「 正しい 思考」 と 呼ば れる 教え の 一 要素 です。 自分 の これから の 方向 を 見る こと。 そして、 自分 は 正しい と 思い つづけ たい のか、 正し さに こだわら ない、 素直 な 自分 を 目指し たい のかを、 選択 する の です。

「こうありたい」は正しさを判断せず、自分自身の「快」を感じる思いで「不快」はべきの方で書いた執着状態を指します。「自分が快を感じるかぎり、欲求も大切にしていい」と考える なら、 承認欲( 認められたい という 願い)も「 活かし 方 次第」 という こと になる。じゃあ「 正しい 理解」とか「方向性 を 見る」ってどうすればできるの?って最初読んだ時は思いました。

書くことの意味

「不快」を生じさせている承認欲求、それから来る欲望、怒りなどの感情に反応することは、妄想といいつつ確かに存在するし、無くしてしまうことは無理だと思います。なぜなら一人で生きていけるように社会ができてないし、それだとつまらないので。「不快」が妄想なら「快」という反応も妄想なのかも?しかし、両方とも現実に自分が感じている反応なので、何がその反応の原因なのか抽象化し、客観視するために「書く」という行為をするのだと私は思います。

最近ちきりんさんの自分メディアはこう作る!を読みました。その中で「ブログを書くことは行動の記録ではなく、自分の考えたことの記録」と書いてありました。誰かに向けて発信しなければ、という気持ちではなくて、記録を残す特に自分の「快」、「不快」を確かめるために書くこと使って、楽しんで自己発見できたらいいなと感じています。


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