明治維新と「神武創業」

フェースブックでは歴史の話はあまりしないが、興味深い話はちょっとずつ書いていこうかと。(誰も読まないだろうけどw)
俺の考えている歴史は、「みんなの学問」であり、俺自身も研究者として、それを一般人・素人にどういうふうにわかりやすく伝達するかの義務を持っていると思う。その練習の一環として。


【明治維新の理念「神武創業」】
1.今年は明治維新150週年。これにも語弊はある。明治維新は事件じゃなくて一つの過程であるからだ。政権(「大政」)が幕府から朝廷に移って行ったことを基準にして、それを仮に事件としての明治維新と称すことにすればいいのでは、と言われても、それもさほど簡単に言い切れることではない。慶応3年10月14日、討幕の密勅が下された同時、将軍徳川慶喜は大政返上の建白を上奏する。ただ、これはあくまで保留され、しばらくは将軍・幕府が日本を統治するよう命じられる。長い期間、朝廷は現実政治・行政の経験がなかったからだ。その大政奉還が現実となるのは、慶応3年(1867)12月9日、王政復古クーデタ、世間には王政復古の大号令と知られている事件である。(しかも、この大政奉還の背景となった論理である大政委任論する、もともと朝廷からさえも幕府の統治を正当化する論理であった)
「徳川内府、従前御委任大政返上、将軍職辞退之両條、今般断然被聞食候」王政復古の大号令の冒頭部分。
慶応3年12月9日は、西暦で1868年1月3日で、これを基準とすれば確かに今年は明治維新150周年である。王政復古実現150周年が厳密には正しかろうけど、でもそれはインパクトもないし、やはり明治維新150周年の方が語感もいいしわかりやすい。その言葉を使うから、一般人は歴史知らずのバカばっかりだというやつこそバカかもね。

2.この王政復古の大号令には実は裏があって、この話が面白いし、俺の論文の最初の部分になる(だろう)。まずもうちょっと乗せてみる。前の引用文の後ろに続く部分。
「抑、癸丑以来、未曾有之国難先帝頻年被悩宸襟候御次第、衆庶之知所候。依之被決叡慮、王政復古、国威挽回ノ御基被為立候間、自今、摂関幕府等廃絶、即今先仮総裁議定参与之三職被置萬機可被為行、諸事神武創業之始ニ原キ、縉紳武弁堂上地下之無別、至当之公議竭シ、天下ト休戚ヲ同ク可被遊叡慮ニ付、各勉励、旧来驕惰之汚習ヲ洗ヒ、尽忠報国之誠ヲ以テ可致奉公候事。」
要するに、癸丑のこと、つまり黒船来航により、「国難」に遭い、長く悩みであり、(明治)天皇の決定で、王政復古が今回成立し、幕府を廃止する、とのことである。


3.ここで注目していただきたい部分は、「諸事神武創業之始めニ原キ」。諸事を神武天皇の創業の当時のことにもとづいて、武家・公家・上下官僚区別なくみんなで議論すること。


4.これが、もともとはこれを主導した岩倉具視は、神武創業云々の代わりに、「総テノ叓中古以前ニ遡回シ」を入れるつもりだったらしい。いかし、自分のブレインであった国学者の玉松操に諮問を求めた結果、神武創業云々の文言を入れたってことは、実はかなり常識となっている。


5.しかも、ここに留まらず、一緒にこのクーデタを図った中山忠能(ただやす、明治天皇の外祖父)や正親町三条実愛(おおぎまちさんじょうさねなる、のち嵯峨実愛に改名)などは、「建武の中興」を入れることを主張していた。以上の事情が、岩倉の生涯を述べた公式史料『岩倉公実記』にのせてある。


6.実は一つの理想的政治モデルとしての神武創業は、突飛に出てきたのではなく、近世後期を通してずっと共有されている理念だった。様々な国学者は言うまでもなく、かの有名な大塩平八郎(彼の話も面白い最新ネタがいっぱいあるけど)も蜂起に際して、「救民」の幟とともに、「天照皇大神」の幟を掲げたり、激文でも「中興神武帝御政道の道」を仁政のモデルとしてあげている。


7.文久3年にはーこの年もものすごく重要な年ー、いわゆる「文久の修復」というのが行われる。文久2年、神武天皇陵を修復しようぜ!という議論が朝廷であがってきて、これを主導したのが、国学者の谷森善臣という人物。結果的に、これの議論が幕府まで及びて、幕府が15000両(さっきの大塩の話で例えると、大塩が蜂起の2週間前に自分の蔵書をすべて摺払い蜂起の資金や救民の資金として周りに配るが、その代金が667両で、現在の価値だと1億7000千万円?3000万円?何千万円だったかわすれちゃったw)を出して山稜の修復を行った。


8.ただ、神武天皇はその実在さえも疑わしい神話の人物であり、彼の陵がどこかもよくわからない状態なのは当たり前なこと。もうすでにその時点で3つの説があり、結局谷森説が勝利し、彼の主張した神武陵が、文久3年修復されることとなる(ちなみに、そうして定まった神武陵が、今も宮内省が正式の神武陵として認めているところである)。しかも、この修復すら最初はうまくいかなかったのが、神武天皇陵の修復を始めた1週間ほど後、いきなり後醍醐天皇の陵墓から悲鳴のような音がしたそうだ。それで、やむを得ず後醍醐天皇の修復をさきに行い、神武陵をはじめ約100か所の修復を行った(明治23年(1890)には、その近隣に神武天皇などを祭神とする橿原神社が創建される)。


9.また、同年(文久3年)8月15日には、孝明天皇が直接神武天皇陵への行幸を計画する。福羽美静(ふくばびせい、津和野藩出身の国学者)もここに出仕することとなる。しかし不幸にも、3日後の8月18日、のち蛤御門の変(禁門の変)につながる、長州藩を朝敵と規定するクーデタである、近衛父子などによるかの有名な「八月十八日の政変」が起こり、その計画は中止となる。


10.とにかく、この神武創業の理想は幕末期(実は当時幕府という言葉はほとんど用いられていなかったから幕末という言葉にも語弊はあるけどともかく)ずっと様々な人々の間に共有されていただろう。またその国学者たちの活動により、明治新政府の基本的な国家方向性となり、「我大八洲ノ国体ヲ創立スル邃古(すいこ)ハ措テ論セス神武天皇以降二千年寛恕ノ政以テ下ヲ率ヰ忠厚ノ俗以テ上ヲ奉ス」(明治2年(1869)9月、刑律改撰の詔)の形だとか、「三月十一日天皇神祇官ニ臨ミ神武天皇ヲ祭ル」(『防長回天史』)からみられるよう、神祇官に神武天皇が祭られたりすることで、かなり意識的に継承される。そしてそれがー網野義彦が指摘しているような、それのばかばかしさとは別にー、今の建国記念日、つまり戦前の紀元節制定につながる(明治5年(1872))。あ、この10.の段落は俺独自説だからどっかで誇らしい顔で態度でかく話まくってたらだめよ。間違ってるのかもしれんよ(笑)


11.だからといって、特に「建武の中興」が幕末維新期に完全に無視されたわけでもない。例えば慶応4年(1868年。1868年9月8日に明治に改元され、原則的には1月1日からずっと明治元年だけど、基本俺は1868年9月7日までは慶応4年と呼んでいるし、結構そういう研究者が多い。何よりも当然9月7日までの史料には慶応4年と書いてあるから。)段階でもうすでに岩倉具視主導で楠木正成を祭る神社(楠社)が造営されたり、楠祭が挙行されたり。


12.文久3年(1863)年には、足利三代木像梟首事件が起こる。尊王攘夷派の人々が、歴代室町幕府の将軍たちの木像を安置している京都の等持院にそれを身に行くが、僧侶に観覧料の支払いを求められたら、「国賊の木像を見るにもお金を払わないとならないのか」と憤怒して、尊氏・義詮・義満三代の位牌を持ち出し、また三代木像の首を斬り、鴨川の河原に晒した事件。幕府は、これを自らに対する深刻な批判として受け入れて、厳しく関連者たちを処罰する。


13.そもそも明治天皇の幼年期から教育書に日本書紀とともに神皇正統記もあったり、明治期に入ってからいわゆる建武中興15社という神社も建てられる。明治天皇の死後、明治天皇の誕生日をどう呼べばいいか、という議論では、(結局は天長節になって戦後には天皇誕生日という名称となったが)建武の中興にたとえ、中興節と呼ぼうぜ!という提案もあったそうだ。これらの事実を見た限り、公家・武家・民衆・国学者など様々な人々によって、建武の中興もかなり意識されていたのではないかと。(以上もじゅん説)


14.じゃなぜ建武の中興じゃなくて、神武創業が最終的に採用されたか、という問題が上がってくる。じゅん説が一番説得力の強いと思うが(笑)ここは営業秘密ということで、建武の中興は天皇親政体制を成功させたといえども、結果的にはすぐ天皇は敗北し、新しい幕府が成立する失敗の道を歩いていってしまったから、結末が悪かったということ。また具体的な建武中興より、神話に基盤してその内容があまりない神武創業の方が、現実的に使いやすいし、昔にとらわれず新しい政策の推進に容易だという先行研究だけ紹介しとこう。俺の論文の大事なネタだから許して!


p.s.上で名前を紹介した人は、ほとんどすべてが維新後神祇省に出仕してて、それが俺の修論第1章の主な内容の一つをなす(予定)。


(2018年1月10日・FBの投稿から転載。必ずしも今の俺と意見が一致しているわけではなく、事実の誤認もあるかもしれないことを断っておく。まあここまでは結構有名な話なので、僕の独自説はだいぶ伏せてある)

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