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誰かを傷つける音楽の価値を図る

高校生の時、あるアーティストが反吐が出るほど嫌いだった。そのアーティストは所謂人にされた仕打ちや女の人にされた酷いことについてそれはもう言葉というオブラートに包んでボロカスに訴えるような内容の曲を多くリリースするような人で、音楽という媒体で自分の憎悪を形にするそのサマがそれはもう見てられなかった。当時はそのアーティストのSNSも楽曲のおすすめもブロックするようにしていた。目にも耳にも入るのが嫌だった故。尖りすぎだろ。今はそのアーティストに大した感情も持っていないし、何ならここでこのコード使うか、だとかこのドロップ使うかと楽曲面ですげぇと感じることもある。だけども僕自身、『言霊』というものは存在すると思う側ということもあり、メロディにするとか、作品に落とし込むとなった時にはそれはもう慎重に言葉を選んだり、丁寧に言葉を選んでいるアーティストが好きなわけだが、彼はその理念に大きな逆説を唱えていると言えよう。
只タイトルにもあるように、彼を通して人を傷つけるような楽曲には価値があるのかについて考える機会があったが答えは間違いなく『ある』一択だった。実際彼が音楽で生計を立てているのはその音楽を愛する人がいるから、でしょう。僕の好きなRADも『五月の蠅』という生々しい復讐の歌を作っているし(僕自身、あれはラブソングの一部だと思う。機会があれば書くかも)、SIX LOUNGE の『リカ』、Adoの『うっせぇわ』なんて馬鹿程流行った。
人間には喜怒哀楽という感情があると謳われるが、その裏には『憎』も『呪』もあるわけで、それをいかに消化することができるかが問われる。その結果法を無視して相手を殺すことで消化する人も、ストーカーなり精神的不安を駆り立てる等、その人の生活を侵害することで消化する人もいるのが世界の現状。その点で言えば彼も、彼を崇拝する人も法に触れるでもなく、物理的に傷つけるでもなく消化しているといえるのではないか。尤も楽曲のモデルとなった人は「これ俺のこと?」「これ私のこと?」と思わせることに関してはマイナス以外の何物でもないのだけれど。
音楽で救われた、と思うことが良くあるし、この記事に目を通している人にもあると思われるが、それは正のベクトルに限らず負の面でも働くのではないだろうか。自分と同じことを思う人がいる、自分の気持ちを代弁してくれる人がいるということは大きな心の支えになる。これが音楽の良い点であるとともに怖いところなのですがそれを彼を通してとても痛感します。
僕自身、バンドでは人を傷つける歌を書きたいとは思わないけれど、誰かを少しでも良い方向に進めることができる音楽については追及したいなぁと思う今日この頃。弾き語り(ソロ)ではその辺自由にやってみるかも。
人間生きてたらいいことばかりではないし、むしろクソみたいなことのほうが圧倒的に多いわけなんで、そのクソ事象にぶつかった後が勝負であり、その人間の真価が問われるということが結論です。それが音楽による昇華でも、その音楽を命綱にするでもいいんじゃない?ってわけです。

みんな、絶対に幸せになろうぜ。ばいちーーー。


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