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006_ 『非常にはっきりとわからない』展 | 目【mé】

目【mé】というアーティストがいる。

目【mé】はアーティストと言っても3人によるグループなので個人ではない。言ってみればバンドのようなものでもある。

アートの世界におけるバンド活動?

アートの世界では、音楽の世界とは違い、グループでの活動は個人による活動に比べると少ない。それは個々の作家性が主張し、衝突するからだということは容易に想像がつく。バンドのように個々がパートを持っているならともかく、メインボーカル3人がバックバンドも無しにステージにたっても、それは客にとっては良い迷惑だろう。即解散である。

個人的にはそんなバンド、むしろ見てみたいけれど。

ただ、この目【mé】というアーティストに関しては、よくよく考えると、バンドのような体制でもある。メインボーカルは個人によるアーティスト活動でも有名な荒神明香。名前からしてボーカルっぽい(適当)。そして、バックバンドの一人がディレクターである南川憲二。そして、もう一人が制作担当の増井宏文。基本的には増井さんは表にはあまり出てこないため、メディアなどでの露出は2人体制であることがほとんど。

とここまで書いて、ディレクターやら、どちらかと言うと裏方のポジションもいる時点でバンドじゃないじゃん!と思いつつ、となると目【mé】はバンドではなく、レコード会社も巻き込んだ一大プロジェクトなのか... と話が収集つかなくなってくるけれど、そのような説明もあながち間違っていないような気もする。

"目【mé】"と言うプロジェクト

はたして、目【mé】はプロジェクトと仮定する。

何故なら、目【mé】と言うアーティストがこれまで作り上げてきた作品は、一枚の絵画や一つの彫刻として完成され完結するものではなく、作品が置かれるその空間や取り巻く環境、そこに関わる人々を巻き込み、そして鑑賞者がいることで初めて完成するものであるから。

それは、いわゆる『インスターレション』と呼ばれるものに近しい。ただ、目【mé】の作品はただの空間作品ではなく、その場所に内包される時間やコンテクストを踏まえて理解することで、初めてその意味に一歩近づくことができる。つまるところ、「見ること」は作品理解の十分条件ではなく、さらに「体験し、思考する」ことが必要条件となる。

そして、その作品は常にその空間と時間においてuniqueな存在であり、よって再現性は無い。

やはり、目【mé】はバンドではなく、プロジェクトという呼び方がふさわしい。そして、多くの人がこの一大プロジェクトに虜になっているのが、昨今の日本の現代アートシーンでもある。

『ネタバレ厳禁』の世界

目【mé】の活躍は、文字通り、目を見張るばかりで、「瀬戸内国際芸術祭」や「大地の芸術祭」、「Re-born Art Festival」といった様々な芸術祭にも呼ばれ、当然のように話題になってきた。

そして、2019年末には千葉市美術館において大規模な個展が開催された。この個展についても、会期が進むにつれ、SNS上では話題となり、会期終盤では入場チケットの売り場に2時間の待機列が形成されたとか...

ここまで話題になっている目【mé】の展示に関して興味深いのは、目【mé】の作品あるいは展示は、原則的に『ネタバレ厳禁』であること。会場での写真撮影はもちろん、SNSでの拡散は禁止されている。そして、多少の愚かな例外はあるものの、それが現実的にしっかり守られていることが非常に面白い。

現代社会においては、たとえそれがモラル違反だとしても、SNSでの露出が意義なくとも正義とされてしまうことが多い。また、開催する美術館側も、特に現代アートの世界では(昔からそうではあるが)写真撮影をOKとするところが多くなってきている。それらを鑑みるに、目【mé】の作品がインターネット上において無防備に晒されることは大いにあり得ることでもある。それなのに、これほどまでに、盲目的に『ネタバレ厳禁』が遵守されていることはそれだけでも注目に値することだと思う。

言葉にならない何か

『ネタバレ厳禁』が守られる、その理由とは。それは、すでに答えが出ていることでもあるけれど、目【mé】の作品は『見るだけでは理解できない』から。

一台のカメラ、あるいはスマートフォンがあれば、その作品の一部を切り取ることができる。でも、切り取られたそれは、ただの部分でしかない。そして、その部分だけを切り取っても、その面白さはまったく伝わらない。

その面白さは言葉には表現しづらい何か。あるいは言葉によって表現しなくてもよい何か。とにかく、言葉にならない何かを大声で発したくなる、そんな喜びが目【mé】の作品には間違いなくある。

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『非常にはっきりとわからない』展

今回の千葉市美術館での『非常にはっきりとわからない』展も、まさにそのような喜びを生み出してくれる展示だった。

一見すると、ただの改修中の美術館の空間がそこには広がっている(そして、実際のところ、千葉市美術館は改修中である)。それなのに、見れば見るほどに、歩けば歩くほどに、そこに広がる空間が『非常にはっきりとわからない』ものに変容する。

そして、『見る』という人間にとっての根本的で、確固たる行為でさえ、その対象から逃れることはできない。

もちろん、身近な場所を訪れても、時間や季節が異なれば、そこに広がる風景はまったく変わってくる。それは日本人にとっては、当然の認識でもある。では、ほんの数十分前、いやほんの数分前に歩いた場所、見た場所に関しても同じことが言えるのか?

この展示を体験すると、歩くほどに自分の目の解像度が変容してくのが実感できる。目の解像度?と思うかもしれない。それは言葉で説明するのは難しいけれど、とにかくそれは「1.5」や「2.0」といった数字で表されるものではなく、「解像度」としか言いようがないものだった。

美術館を出て、そこに広がる千葉の町並みは、特にこれといった特徴があるわけでもなく、いつもの(であろう)千葉の日常の広がっていた。それでも、美術館に入る前と後では、何が違うように感じてしまうのは、この展示を体験したせいかもしれない。

目【mé】による『非常にはっきりとわからない』というプロジェクトは、たとえ展示が終了しても、終わることなく世界に接続されていたのだった。


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