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Twitter創作界隈の駄サイクルがマジで酷いという話

このお話は筆者の観測範囲におけるTwitterのお話であり、筆者がかつて数年間、創作への情熱を失ってしまっていた理由を振り返るのが目的の文章である。

はじめに

筆者はTwitterにイラストを上げている創作者の端くれであるが、数年前から意欲が無くなり、イラストを全く上げない時期がしばらく続いていた。
当時はその理由が分からず、単に創作活動に飽きてしまったと思い込んだり、現実での環境の変化などに理由を見いだしていた。

現在は、あれは自分がうっすらと感じていた創作界隈への疑問が確信へと変わったことで、そのような腐敗した界隈の中で創作する意味を見失ってしまっていたからであると考えている。

ここで扱う創作界隈とは、Twitterにおいて精力的に活動している、漫画・小説などのプロ・アマチュアを問わずの創作者や、それに関わる出版社などの人々によるゆるい繋がりの事を言う。
人によってはオタク界隈と言った方がしっくり来るかもしれない。
しかし創作者の話が中心であり、ここでいう創作者はいわゆる「オタク向け」な作品を作る者達に限らないため、創作界隈と呼称する事にした。
非常に広範囲の人間を含む概念であるので、人によって印象がだいぶ違う話であるだろうということを、はじめに断っておく。

創作界隈は「褒められたいが、批判はされたくない」という思想に基づいて、それに反する行いをする者への攻撃や、自分たちが扱う創作物に対する卑下を行うような者の声が大きい。
「批判されたくない」思想に正当性を与えるためにそれらしい理屈を継ぎ接ぎした結果、時に受け手への罵倒や、やりがい搾取すら肯定される事もある。

創作者同士が内輪で褒め合い、成長もせずにそこで満足してしまうという流れは「駄サイクル」と呼ばれ、批判されている。
筆者はそのような関係性であっても、内輪で完結していれば問題はないと思っている。
しかし、創作界隈における駄サイクルは内輪だけはで完結せず、外部への強い攻撃性を持っている。

筆者はそんな界隈の風潮に気づいた時、当事者から卑下され、軽んじられているようなものを制作し続ける理由がないという、やるせなさを感じた。
憧れていた創作者が、嬉々として他者を加害し、自身の創作物の価値すら貶めていたのだと気づいてしまった時、裏切られたという失望と恥があった。そして周囲で加害が行われる中で何も言わず、創作者であり続ける事は、やんわりと加害に加担する事に他ならないのではという考えから、創作活動のモチベーションを維持する事が困難になっていた。

もちろん、そういった創作界隈の空気感について否定的な見方をする当事者の意見もあったが、RT数や拡散の度合いを見ても周縁感は否めなかった。Twitterだけが世界の全てではないだろうと思おうにも、書店に著書が並んでいるようなプロの作家のアカウントですら、そのような空気感に肯定的な立場でいるのを見ていると、とてもそうとは思えなかった。

筆者は今年の末になってようやく、自分が感じ続けてきた違和感や不快感を理由づけし、言語化できるまでになった。
これからも筆者が創作活動を続けていくためにも、今年のけじめとして自らの所属する界隈の話をしたためておくべきだというのが、この記事の執筆理由である。

創作界隈では、批判されたくないと言う言葉をオブラートに包んで飾り立てる表現の可能性について、日夜活発に模索されている。以下、創作界隈の「批判されたくない」思想が現れた行動の実例だと筆者が考えるものを雑多に挙げて、考察していく。

批判的な感想は悪である

批判される事を何よりも嫌う創作界隈では、彼らの創作物に否定的な感想を言う者は、何かと理由をつけて悪者にされる。
理由の部分は重要ではない。それは「批判されたくない」という本音を覆い隠すための出まかせであり、一貫性や正しさに欠けるからだ。

例えば、「批判されたがために筆を折った人がいる。だから批判はやめるべきだ」「批判じゃなく、肯定的な感想を言い合うと健康になれる」「自分は向上心はないので、批判は嬉しくない。他の創作者も全員そうだ」のように、個人的な経験を創作者全体に押し付けて、批判を黙らせようという空気を作ろうとする。そこでは批判を受けて成長したいという人間の存在は無視されている。

作家が自作品のレビューで誹謗中傷された、と言い同情を集めたが、実際には単に読んだ上での否定的な感想では?としか思えないものしか見つからなかったという事件もあった。
創作者が読み手を無産だと罵倒して黙らせようとしてきた事もあった。受け手側がその意識を内面化して、自分たちは立場を自覚するべきだと言うような事もあった。

特にその批判が、受け手側にある程度の知識を要するようなものである場合、それは「リアルめくらで、害悪なクレーマー」という悪役の定型に当てはめられ、一層苛烈な罵倒を受けることになる。
ファンタジー作品における仏教用語などの世界観にそぐわない言葉の使用、ロボット作品における通常兵器と比較したロボットの優位性、歴史作品でその時代に存在しない物・概念が登場する事などへの否定的な意見が顕著な例だろう。
それらはよく「リアリティより面白さを優先している(時にスター・ウォーズのジョージ・ルーカスの「俺の宇宙では鳴る」を引用して)」「仏教用語を批判するなら、日本語使用も批判すべきだ」「誰も気にしない細部に労力を割けというのは、作り手の事情を無視している」などと、一見それらしい理屈をもって批判される。

しかし結局のところそれは、「批判されたくない」一心でそれらしい理屈を捏ね回しているだけに過ぎず、批判を黙らせるに足る強固さを有していない。

なぜなら面白さと言うのは、作者がジャッジするものではないからだ。受け手の一人一人が判断する事だ。
彼らは、簡単な計算ミスがあったり、自分たちの住んでいる国や時代の描写が間違っているようなおかしさに関しては、かばおうとはしないからだ。
受け手と比べて「間違っていれば違和感を覚えて当然である」と思える知識のレベルが著しく低いという事を、恥ずかしげもなく自供しているだけに過ぎない。
そもそも、創作者であるなら辞書的な言葉の意味だけではなく、ニュアンスも意識して類義語の中から言葉を選定するのは日常業務であり、それが世界観にそぐわない言葉遣いの場合のみ例外であると言うのは筋が通らない。
受け手が作者の事情を忖度する義務はない。作者がプロだろうがアマチュアだろうが、低予算だろうが、納期が短かろうが関係ない。過酷な状況でも努力せよとは言いづらいが、完成品の品質が低ければ批判に甘んずるのは当然だ。

このような言い訳は単に見苦しいだけに留まらず、作品をより良くしようという向上心のある創作者にとっては迷惑でもある。
作者からの晒し上げや罵倒を恐れた受け手が萎縮し、肯定的な感想しか送らなくなれば、自作品の欠点を客観視できる機会が失われる。
面白さとリアリティの両立に苦労している創作者からしてみれば、同業者からその努力を無駄であるかのような言い草をされるのは、不愉快極まりない。

しかし、言い訳をしている者達は自分の保身に夢中で、それが他人の迷惑になっているなど、まったく思わないのだ。
ともすれば自分が悪い受け手を叱りつける事で、他の創作者が害されるのを守っているのだとすら勘違いしている。

もちろん、彼らが主張するような悪役の定型に当てはまるような、害悪なクレーマーというのも存在する。
しかしそれが存在しているという事実が、批判者全体を黙らせようという意図で引用されている点には留意すべきである。

批評家より、大衆の方が正しい

批判的な感想、特に受け手に知識を必要とするような内容の物が特に悪者として扱われるのは、前項で述べた通りである。
批評家・書評家などという職業はその条件に当てはまりがちで、明確な肩書があるという分かりやすさから、創作物の成長を阻害する不倶戴天の敵という立場に置かれている。

創作界隈が批評家をここまで敵視する理由として、権威批判が理由だろうと考察する事もできるが、筆者はそれは後付けの理由に過ぎないと考える。
確かに権威のある人間が称賛しているような作品は、それだけで色眼鏡で見られがちである。
権威のある賞で大衆人気がある作品が扱われない場合、それが権威批判の材料にされる事もある。
だがそれがもともと創作界隈で称賛されがちだったものの場合、権威のある人間が賞賛しても理解のある人間だと歓迎され、それが賞を取った場合は名誉な事だと受け入れられる。

この事から分かるように、権威であるから批判されるのではなく、主張に説得力を出すために権威批判的な立場になることもあるというだけなのだ。
権威批判は本質ではないので、条件次第では権威を振りかざすこともいとわない。
前述した批判への批判にルーカスの言葉が引用されるというのも、映画界の大物の権威を利用して、相手を黙らせたいという意図があるからだろう。

批評家は多種多様な理屈をもって悪者へと仕立て上げられる。「感想を書くだけなのに、儲けているのが悪い」「無料で本をもらい、経済を回していないから悪い」「大衆の意見と食い違っているから悪い」「社会派でお高く止まった作品を称賛し、エンタメ作品に見向きしないから悪い」など。

経済との関係性に関しては後に説明するので割愛し、批評家/大衆、社会派/エンタメのように、実際にはグラデーションである概念を二項対立のごとく扱っている視点に着目したい。
これも結局は本質的な内容ではないので、必ずしも創作界隈が大衆の側に置かれるとは限らない。
創作界隈で評判の悪い作品が大衆に受け、売れていた場合、彼らは大衆は愚かであると見下し、批評家の立場になる。

このような二項対立的な視点では、エンタメ性と社会問題を扱う事は両立しない。
エンタメ作品に対して、社会との関係性を踏まえて考察する事は作品の見方として間違っているし、エンタメである事は非道徳的反社会的である事とイコールになる。

昔の漫画に対して、現代のジェンダーの視点で見ても良い作品だと評価し考察した受け手は、肯定的に述べたにも関わらず、間違った見方をしていると非難された。
社会問題とエンタメの両立を評価された作品は、実際に売れているというデータは無視され、不人気であるという誤った認識で雑に語られ続けている。

彼らはエンタメ志向の作品こそが真理であるかのように称賛するが、その実エンタメ志向の作品に対して、実態以上に低俗ななものであるというネガティヴキャンペーンを行い続けているのだ。

金を落とすのが、良い受け手だ

悪い受け手像を反転させ、肯定的な感想を言う事が良い受け手の条件とされるのは当然として、創作界隈ではそれに加えて、金を落とす事も重要視されている。

批判的な意見を言う者は、当然不満があるのでそれを購入しようとは思っていない場合がある。そのような者の意見を気にしても金を落とさない=創作者にメリットがないので意見を聞く必要はない。重要なのは肯定的で、金を落とす客だと言う論法である。
良い受け手が何かのきっかけで作品に不満を持ち、悪い客と認定されて振り落とされ続けた結果、ごくわずかなファンしか残らなくなる……というような可能性は考慮されていない。あるいはファンの選別を行い続け、少数精鋭の集団を生み出す事に何か快感を抱いているのかもしれない。

この金を落とす客の重要視は、もとはオタクの間での「オタクは経済を回している」のネットミームの影響を受けて特にここ数年、強く言われるようになった話である。
オタクが消費する事しかできない、同い年の人間は家族を持ったり事業を成し遂げているのに……という自虐的なニュアンスの強い言葉であったものが、いつの間にかオタクが他の人間に対して社会貢献の度合いでの優位性を示すための言葉になり、ついに権力者が正しい客の在り方をジャッジするための言葉になってしまったのだ。

もちろん、商売でやっている出版社やプロの作家からしてみれば、金儲けは重要な事には違いない。
ただし金儲け至上主義を掲げる企業は少ない。多くの企業は経営理念でより良いサービスであるとか、地域の発展であるとか、倫理の尊重などを掲げている。実際には建前でしかなくとも、人前でそんな話は普通しないものだ。

創作界隈が金儲け至上主義に走り、客の気持ちや倫理を軽視した極端な例として、作品を人質に出版社や作家が、客を脅迫するいう商法がある。
作家が「単行本を買わないと打ち切りになる」などと言った内容の漫画の公開や呟きをして、読者にプレッシャーをかけると言うものだ。
数年ほど前がこの商法の全盛期で、あまりにも問題点が批判されたせいで、最近ではめっきり見かけなくなった。

この商法は、金を払わないと作品が無くなると読者を脅迫すると言う骨子は同じだが、「出版のシステムを解説して説得力を出す」「物理書籍で、書店で、発売直後になどと多量の条件を出す」「過去の打ち切り経験を語り、過去作を応援していたファンの努力不足を突きつける」などして読者にさらにプレッシャーを与えるように進歩していった。

末期にもなると創作界隈の主流派からも批判されるようになる。その点は筆者も良いことであったと認識しているが、いまだに表面的な手法が変化しただけで金儲け至上主義が蔓延っているのを見ると、果たして彼らはこの問題の本質を理解したうえで批判していたのだろうか?と疑問に思えてくる。

この商法では作品に費やしたコストの多寡で読者に優劣がつけられている事は言わずもがな、作家や読者に不要な労力が押し付けられ、搾取されていると言う点も問題である。
読者を脅迫するような宣伝がなされたのは、本来出版社がするべき漫画の宣伝が、広報活動の素人である作家に押し付けられてしまったからであると言えよう。
作家の独断での宣伝という形だから、出版社の監修を受けられずに危険な内容の漫画が表に出てしまい、炎上してもそれは作家の責任とされてしまうのだ。

金の問題に関して真摯に考えていれば、作家が自作品を継続させたい一心で、無償で宣伝をし続けねばいけないような状況は、やりがい搾取であると批判されるはずだろう。
だが金を落とす客が良いというのは、「批判者は金を落とさないので、客ではない」として批判者を黙らせる目的で輸入された、後付けの理屈に過ぎないので、やりがい搾取を改善する力はない。
金を落とす客が良い客であるというロールモデルを示し、そこから外れれば悪口を言われ、好きな作品も失うという空気感を作り出し、肯定的で都合のいい金づるに客を仕立て上げる。これはまるでブラック企業である。

直接的なあくどいやり方は少なくなっても、作家が業務範囲外でファンサービスとして作品を公開したり、その商品が社内の熱意のある作家や編集者の勝手な努力によって完成したというような物語は、今でも肯定的に受け止められている。
もしかしたらそれはただの宣伝文句で、実際にはきちんと報酬が支払われたり仕事としてやっているのかもしれない。
しかしやりがい搾取を匂わせるようなうたい文句が肯定的に見られているならば、やりがい搾取を許容する土壌があるという事を示している。

実際には報酬が払われているものを、あたかも無償の愛によって成立しているものだと錯誤させているのなら、それはステルスマーケティングになるかもしれないという点も問題だ。
Twitter上で人気のある複数の漫画家が映画「アナ雪」の感想を仕事として描いて公開したが、あたかも宣伝ではない純粋な感想のように見せかけていた事が問題視された「アナ雪ステマ事件」を覚えているだろうか。
ステルスマーケティングが行われるのは、その宣伝方法に有効性があるからである。金銭のやり取りがない純粋な作品愛を称賛する心が、受け手側にあるからこそ起こった事件なのだ。

このような構造があるのはレビューの信頼性が無くなり、受け手が商品を選びづらくなるというだけではなく、これからプロを目指そうとするアマチュア創作者にとっても有害である。
創作者の無償の愛が作品を成功に導いたり、次の仕事につながったというサクセスストーリーを真に受けた彼らは、自らがやりがい搾取される事に疑問も抱かなくなるだろう。

また、創作で倫理より金儲けが優先される事で起きる問題は、受け手を傷つけ恐怖させる手段で商売が行われるというだけではない。
デマ、偏見、差別の助長のような表現すら、儲かるならばそれで良いと肯定される恐れがある。

まとめ

まとめよう。創作出版界隈では「褒められたいが、批判されたくない」という思想に基づいた駄サイクルが行われている。
それは彼らの創作物に批判的な意見を持つ受け手や批評家への排除や攻撃へとつながり、向上心のある創作者から成長の機会を奪う事にもなっている。

彼らは批判されたくないがために創作物を低俗で、批判する価値もないものであると不当に貶めている。
内省が行われず、自分たちの苦痛の原因は全て敵=悪い受け手のせいであるかのような世界観を商業活動にも適用した結果、受け手に苦痛を強い、創作者がやりがい搾取されるという構造が維持され続けているのだ。

おわりに

今年、「幻の絶版本」という事件が起きた。
出版社が自らの都合で絶版した書籍を面白おかしく取り扱う事への不道徳さを批判され、企画は取り下げられたが、企画した作家が独断で批判の批判をするnote(現在は削除済み)を投稿して火に油を注いだという事件である。

そのnoteを読んだ時、筆者は作家が批判に対してこのような反応を示したのは、創作出版界隈の風潮と無関係ではないだろうと考えた。
現実の人間への配慮が不足した企画が通ってしまった事。記事で「罵倒された」と名指しされたアカウントが批評家であった事。絶版本作者の意見は当事者として重視されたが、雑誌読者の意見は軽んじられ、罵詈雑言とまとめられてしまった事。逆ギレとも言えるnoteを投稿してしまうような、作家の批判への耐性の低さ。作家が出版社の意向を無視して、独断で活動してしまった事。

とんでもない話だと思ったが、新奇性は感じられなかった。この作家が特段の極悪人であるとも思えなかった。
このような考え方は創作界隈では珍しくはないものである。その時は、この事件をきっかけに、誰もがこの作家のようになりかねないのだという事を考え、少しずつ創作界隈の悪しき空気は改善されていくものだという、希望的観測を抱いていた。

それから日を置かずして、今度は書評家の炎上があった。TikTokを使って本の書評をしている人を批判するという内容であった。
好意的に解釈しても文章を扱うものとしては言葉足らずだという感想にしかならず、炎上した事は当然だと思ったが、それに対する創作出版界隈の反応がひどかった。
書評家という職業自体をけなし、自腹を切って本の紹介をしてくれるTikTok書評家に感謝し、書評家もかくあるべきだと無賃労働を称賛する。作家は経済を回すことが全てだと思っている。

この事件は数日後に批判されたTikTok書評家と書店が組んだ企画が発表され、炎上した書評家が苦言を呈したのはそのような背景を知っていたからでは?あれほどまでに創作出版界隈がTikTok書評家をかばったのは、同業関係にあったからなのでは?というなんとも後味の悪い結末に終わった。

創作出版界隈は何も変わっていなかったのだ。表面的な悪さを認識しても、根本的な思考が変わらなければ第二第三の炎上事件が起こり、また誰かが被害者になり、誰かが加害者になってしまうだろう。

創作出版界隈がこのような傲慢な意識を抱き、問題が生じてもまるで変わらない理由は、創作物を扱う職業においては属人性を排除できないことが原因だと推測する。
創作者は一人一人がブランドのようなもので、受け手が作品に不満を抱いたとしても、代替品を求める事が難しい。創作者は自分の唯一無二性を自覚しているので、受け手の声を聞こうとしない。そして逆に、自作品の存続を人質に取られれば、やりがい搾取も受け入れてしまうのだ。
これは創作活動に身を置く誰もが抱える持病のようなものだ。創作の前提をひっくり返すような革命でも起きない限り(例えば全ての創作者がAIにとって変わられるような)、気を抜けばいつでも顕在化して、われわれを侵食しかねないのである。

創作界隈は、あたかも批評家や、厄介な悪い受け手を打ち倒せば自分たちの世界は良くなると思い込んでいるが、自らを苦しめているのは界隈の構造そのものであるという自覚を持つべきである。

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