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雑学マニアの雑記帳(その3)窒素

ポテトチップスの袋には、大抵の場合、窒素ガスが充填されている。酸化による品質劣化を防止するとともに、袋をパンパンに膨らませることでクッションの役割を担わせて、輸送時のショックから内容物を守っている。アルミ缶に入ったコーヒー飲料でも窒素ガスの圧力によってアルミ缶の強度不足を補う効果をもたらしているのだそうだ。
「窒素」は空気成分の5分の4を占めるものでもあるから、我々の身の回りにある身近な元素である。さて、ここで一つの疑問が沸く。この「窒素」という名称の語源は何かということだ。「炭素」や「水素」、「塩素」といった元素名は、炭や水や塩を構成する素(もと)であるという説明で納得できるが、「窒素」の「窒」とは何のことなのかが気になる。
とりあえずネットで検索してみると、ドイツ語やオランダ語の窒素を意味する言葉を直訳すると「窒息させる物質」となるため「窒素」と名付けた旨の説明を見つけることができる。なるほど納得! と言いたいところではあるが、ネット情報の鵜呑みは禁物だ。まず直感的に「窒息」という言葉自体、古来からの日本語であるとは思えない。仮に「窒素」という日本語が登場した時点において、まだ「窒息」という日本語が誕生していなければ、前出の語源説明は成り立たなくなる。
そこで、いつものように日本国語大辞典で、窒素と窒息の両者について初出年を確認してみる。すると案の定、「窒素」は1834年発刊の「遠西医方名物考補遺」に見られるが、「窒息」は1862年が初出として記載されている。窒息の方が30年近く後に出現しているということだ。
もちろん、この辞典の情報が絶対に正しいという保証はなく、「窒息」という言葉が1834年よりも前から存在していた可能性が無い訳ではない。ただし、そのことが証明されるまでは、「窒息させる物質」だから「窒素」と名付けたという説は正確性を欠く説明であると言わざるを得ない。
ちなみに、「遠西医方名物考補遺」で窒素という日本語を提案したのは宇田川榕菴という蘭学者で、1837年発行の化学書「舎密開宗」の中で窒素について次のような説明を述べている。

窒素瓦斯(ガス)ハ、水ニ親和セズ、燭火ヲ吹滅(ふきけ)シ、動物ヲ噎殺ス。

この中で、「噎殺」という見慣れない言葉が出てくるが、これはあまり一般的な言葉では無いようであり、読み方も「えっさつ」なのか「いっさつ」なのか、はたまた違った読み方があるのか全く不明である。ただし、意味としては文字通りに捉えれば「むせびころす」となる。今の言葉で言えば「窒息死させる」ということだろう。宇田川が、ここで「動物ヲ窒息セシム」と記述していないところを見ると、「窒息」という言葉は当時まだ存在していなかった可能性が高い。「窒息させるから窒素」という語源説が正しいのであれば、宇田川はここで「窒息」という言葉を使ったはずである。
当時、窒息という言葉が無かったのであれば、元のオランダ語を直訳しても「窒息させる物質」となることは有り得ず、例えば「喉を塞ぐ物質」などと訳されて、塞ぐという意味の漢字「窒」が用いられたと考える方が合理的であるように思われる。(もちろん、窒息ということばが先に存在したという仮説が完全否定された訳ではないが、その証拠が出て来ない限り、分が悪い。)
さて、窒素の語源については、ある程度納得いくところまで調べることが出来たが、この際、他の元素名についても少しまとめておきたい。
現在までに発見されている元素は、100を超える数に達するが、その日本における呼称については、大きく分けて三種類に分類することができる。まずは、「素」という文字を含まない漢字表記の元素名だ。主に、元素という概念すら無かった時代から使われてきた言葉が中心となる。日本国語大辞典によれば、各元素名の初出年は以下の通りだ。

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第二のグループは「素」という文字が付くものである。水素、ホウ素、炭素、窒素、酸素、フッ素、珪素、塩素、砒(ひ)素、臭素、ヨウ素、といった元素がこれに相当する。
第三のグループは外国語をそのままカタカナで表記したもので、リチウム、ナトリウム、カルシウム、ネオン、アルミニウム、コバルト、ウラン等々、大多数の元素名は訳語が造られることなく外来語のままのカタカナ表記となっている。
おそらく当初は逐一訳語を造っていこうとしていたのだろうが、次々と新しい元素名が入ってくるために、その度ごとに対応していられないという状況になっていったのではないだろうか。フッ素やヨウ素、珪素あたりになってくると、原語の発音を元にした安直な命名法となっている。このあたりから、水素や塩素などのように意味を考慮したものではなくなってきている。意味のない造語を創り出すくらいなら、原語をそのまま受け入れた方が合理的であるという考え方になっていったのではないだろうか。
このように、元素名の元を辿るだけでも、興味深い事実を知ることができた。他の化学技術用語についても、いつ、どのように造られてきたのか、気になるところである。是非とも時間を見つけて、科学技術用語の日本語訳の歴史を訪ねてみたいものである


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