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雑学マニアの雑記帳(その27)統計の落とし穴

以前、国会中継を見ていた時のことである。「相対的貧困率」の統計を巡る与野党の応酬が興味深かった。与党側は貧困率の低下を自賛する一方、野党側は「貧困ライン」の低下を指摘して、貧困率が低下したからといって貧困が改善されている訳ではない、と突っぱねたのだ。どうやら貧困に関する統計情報の読み解き方について、与野党双方の主張が違っていたようだ。
やや分かりにくい議論であるので、厚生労働省のホームページで「相対的貧困率」や「貧困ライン」について調べてみることにした。まず相対的貧困率であるが、これは所得の「中央値」(等価可処分所得の順に全世帯を並べたときに、真ん中にくる世帯の所得額)の半分の額を「貧困ライン」とし、そのライン満たない所得の人を相対的貧困者と認定、その割合を相対的貧困率と呼ぶのだそうだ。(等価可処分所得は、世帯の年収額そのものではなく、標準化された所得額であるが、ここでは詳細な定義は割愛する。以下、簡単のために、単に「所得」と表記する。)
例えば平成27年の場合、所得の「中央値」は245万円である。つまり年間所得が245万円よりも多い世帯数と少ない世帯数が同数、ある意味で裕福でも貧困でもない所得レベルということができる。そうなると、この額の半額の122万円が貧困ラインとなり、年間所得が122万円に満たない世帯が貧困世帯となる。
全世帯に対する貧困世帯の比率、つまり相対的貧困率が平成27年の場合、15.6パーセントであった。その3年前の相対的貧困率は16.1パーセントであったので、0.5パーセント低下した、つまり貧困世帯が減ったというのが政府側の主張である。
一方、野党は貧困ラインに着目した。実は、貧困ラインは平成9年の149万円から右肩下がりで低下してきて、平成27年には122万円にまで低下していることを問題視している。例えば平成9年に年間所得が140万円の世帯があったとしよう。そしてその世帯の所得が平成27年には130万円に下落したとする。この場合、平成9年当時は貧困ラインを下回っていたので「貧困」と判断されていたものが、貧困ラインの低下によって平成27年には「貧困でない」という判定されてしまうのだ。所得が減っているにも関わらず、貧困から脱却したと判定されるのだから、おかしな話になる。国際的に統一された定義を持つ「相対的貧困率」であるから、貧困について議論するのに適した統計値のような印象を受けるが、その定義をよく見れば、取扱いに注意を要する統計値であることがわかる。
もうひとつ、よく国会で議論される統計値として実質賃金がある。野党は実質賃金が低下していることを指摘して国民の生活が悪化していると主張する一方、政府は雇用の改善が進んでいることが影響しているのであって所得状況は改善していると主張しているようだ。
これもわかりにくいので調べてみると、次のようなことが起こっている可能性があることが判った。説明のために極端な例となるが、5人の労働者からなる国を考えてみる。ある年の5人の所得であるが、ひとり(A)は失業中で所得ゼロ、残りの4人は下のグラフの賃金分布例ような所得であったとしよう。ここで、5人の「平均所得」は400万円であるのに対し、平均賃金の統計では失業中のAさんを除いた4人の賃金が集計されるために、「平均賃金」は500万円となるのだ。これは、統計の情報源が企業側であり、企業が従業員に支払った賃金を集計・平均しているためである。どこの企業にも属さないAさんの所得は集計の対象とならない訳だ。

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ここで、その翌年にAさんは目出度く職を見つけることが出来て、年間200万円の賃金を得たとしよう。そして他の四人もグラフのように各50万円ずつの昇給をした場合を考える。つまり5人とも年収アップし、5人の平均所得は400万円から480万円に改善されたことになる。しかし平均賃金は、新たにAさんを含めた五人の平均で計算されるために、500万円から480万円にダウンしたことになる。全員が所得アップしているのに平均賃金はダウンなのだ。失業率が改善して新規に就業する人数が多い場合に、この事例のようなことが起こり得ることは容易に想像がつく。新規に就業していきなり高額給与を得るケースは稀であるため、どうしても新規就労者の増加は、平均賃金を引き下げる方向に働いてしまう。単純に平均賃金の増減から国民全体の所得の変化を語るのは、やや危険である。
「貧困率」にせよ「平均賃金」にせよ、統計のタイトルから受けるイメージと統計の実態が乖離する場合がある。貧困率が下がったから貧困状況が改善しているとか、平均賃金が下がっているからといって国民の生活が苦しくなっているといった短絡的な判断は誤解を招く恐れがあることがわかった。議員の方々は与野党ともそんなことは百も承知の上で、自らの政策の有効性を国民に訴えかけたり、相手方の政策の失敗を国民に印象付けたりしようとしているのだ。もっともらしい統計値に基づく主張には注意が必要である。
統計値の読み方に関しては、もうひとつ「因果関係」と「相関関係」の違いにも注意が必要である。例をあげてみよう。
たとえば、ある健康サプリメントを5年以上服用していた人とそうでない人の間に平均寿命に1年の差があるという統計結果があったとしよう。この場合、サプリメントの服用と平均寿命の間には「相関関係」があることは確かなのだが、「そのサプリメントを飲んだから平均寿命が伸びた」という「因果関係」が成り立つことが示された訳ではないことに注意しなければならない。
なぜならば、ひとつの可能性として、例えば次のようなケースが考えられるためだ。サプリメントを服用しようとする人は、そもそも健康に強い感心があり、食生活に注意し、適度な運動を心がけている人が多い可能性がある。そうすると、仮にそのサプリメントが何の健康効果がなかったとしても、きちんとした食生活や運動によって、健康意識の低いグループよりも寿命が長くなる可能性がある訳だ。健康意識が高い結果として、サプリメントの服用率が高かったり寿命が長かったりするのであれば、結果として寿命の長い層とサプリメントの服用率の高い層が重なるだけであって、サプリメントが効いている訳ではないのだ。その場合、健康意識が低い人が単純にそのサプリメントを服用しても、食事や運動に気を使わなければ、寿命が伸びることは期待できないということになる。
我々はどうしても「相関関係」を見せられると「因果関係」があるものと思いがちである。悪意の有無にかかわらず、統計による誤解の危険は我々の周りに溢れている。心して統計データを見ていかねばなるまい。


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