雑学マニアの雑記帳(その21)花見酒
寄席の高座に掛けられる落語の演目の数は、比較的頻繁に取り上げられるものだけでも100席を優に超えるのだそうだ。中でも季節感の漂う演目などは、その季節に合わせて演じられるため、寄席に通っているだけで季節の移り変わりを感じることができる。
例えば、桜の季節には花見に関連する演目である「長屋の花見」「花見の仇討ち」「あたま山」といった噺を楽しむことができる。思わず寄席帰りにどこか桜の名所にでも寄っていこうかという気分にもさせられる。
そんな中で、花見気分に浸りつつも、何か頭の片隅にひっかかるものが残る演目がある。「花見酒」という噺だ。二人の主人公は馬鹿馬鹿しい失敗をやらかしてしまう訳だが、改めて彼らの経済行為を真剣に考え始めると、頭の中を整理するのに一苦労することになる。ある意味、奥が深い噺なのだ。
まずは、簡単にあらすじを紹介しよう。わかりやすくするために、金額や各種設定はオリジナルとは異なった説明であることをお断りしておく。
主人公は、ある小さな会社の社長と専務。二人で商売をしようと会社を設立した。季節は春、さる花見の名所の近くには酒が買える店がないところに目をつけて、ひと儲けを目論む。知り合いに1000円を借りて、「ひと儲けして1200円にして返す」と約束する。儲けのしくみは、次の通りだ。
まず、1000円で焼酎を1升仕入れる。これを水割りにして一杯100円で20杯売ろうというのだ。うまく行けば売上は2000円になる。次には、これを元に2升の焼酎を仕入れて、40杯を売って4000円の売上を稼ぐ。以下、倍々ゲームで大儲けという算段だ。
早速焼酎を仕入れて花見会場へ向かう。この時点で二人の持ち金は社長の小遣いの百円玉一枚だけだ。すると道すがら、社長は専務に対して「この百円で酒を一杯売ってもらえないか?」と聞く。専務は「お金さえ払ってもらえればお客様です。何の問題もありません」と、酒を一杯注ぎながら百円を受け取る。すると、今度は専務がその百円で社長に酒を注文。社長も二つ返事で酒を売る。この後の展開は皆さんご想像の通り、百円玉が都合10往復し、20杯の酒は完売となる。目論見通りに酒を売り切ったのだから、元の1000円が2000円になっている筈、と手元のお金を確認するも、どう見ても百円玉一枚しか見当たらない。一体どうなっているのだ、という話。
さて、ここで起こったことは、実は視点を変えることによって様々な解釈・説明が可能となる。そこがこの噺の面白いところである。
まずは第一の解釈。これは二人に1000円を貸した人物の視点に立つ。商売のためだと言うから貸したのに、二人は商売もせずに、単に借りた1000円で酒を買い、自分たちで全部飲んでしまった。貸し手にしてみれば、詐欺まがいの行為に見えるだろう。二人には騙す気などさらさら無く、ちゃんと商売をしていたつもりだろうが、百円の往復の現場を見ていない貸主にはそんな言い訳は通用しない。
第二の解釈は、この二人の主張するように、確かに商売は成り立っていたと見る立場だ。二人が言うように、お金さえ払ってもらえればお客さんには変わりはない。たしかに二人は2000円を売り上げていると言っても良い。これは売り手としての二人の立場だ。一方で、二人は売り手であると同時に、「買い手」でもあった。二人合わせて2000円の酒を買って飲んでしまったのだ。本来、次の仕入れに回すべき2000円を使ってしまったのだから手元に2000円が残っていないのも当たり前だ。2000円あれば酒屋に行って2升の酒が買えるのに、二人は1升の酒しか飲んでいない。悪い売り手にボラれてしまったのだ。売り手としてはボロ儲けした二人だが、買い手としてはカモに過ぎなかったということになる。
もうひとつの解釈は、この二人が商売をして2000円の売上を得たところまでは、第二の解釈と同じである。そこから先だが、そもそも曲りなりにも会社組織として商売をしているのだから、二人は会社の金に手をつけてしまったと見ることができる。それぞれ1000円ずつ横領してしまった訳だ。横領した金の使い道が遊興費(飲酒)に使われたという解釈だ。最初に社長が使った百円はポケットマネーなので問題なかったが、それを受け取った専務が100円で酒を買おうとした時に、社長は専務に対して「それは会社の金だ。飲みたければ自分の金で飲め」と言うべきだったのだ。
詐欺か、カモか、横領か、という解釈のお遊びになってしまったが、シンプルな落語一席でずいぶんと頭を使うことになってしまった。
実は、この話はさらに深い示唆を与えてくれる可能性がある。それは「離島の経済」だ。二人は第三者相手に商売をせず、身内同士での商売しかしなかった。第三者から外貨を獲得しない限り、二人の手元には百円玉一枚しか残らないのだ。離島においても、同様に、離島から外に出て行くお金、外から入ってくるお金、という観点が重要になる。例えば、島の生活に不可欠な支出として、電気代やガソリン代、車や家電の購入代金などが挙げられるが、これらのサービスやモノは、いずれも大抵は島外から提供されるので、かなりの額のお金が定常的に島から外に出て行くことになる。仮に、外に出て行くお金が、外から入ってくるお金よりも多ければ、着実に島内の現金は減っていくことになる。実際に、島の経済縮小に歯止めが掛けられずに、全島移住で無人島になってしまった島もあるのだ。そうならないための外貨獲得施策としては、
1.島の特産品(ブランド魚など)を島外に売り出す
2.観光客を呼び込み、お金を使ってもらう
3.企業誘致(給料収入の形での外貨獲得)
4.公共事業予算の島内執行
などが考えられるが、いずれも容易ではないだろう。多くの離島では、こういった施策で経済的な拡大を目指して苦労しているのではないだろうか。もちろん、「お金が全て」ではない訳で、自給自足に近い暮らしで幸せに過ごすという選択肢もあるだろうが、一般論としては「外貨」の獲得は離島の生活を考える上で、重要な要素となるだろう。
それにしても落語の笑い話ひとつが、これだけ示唆に富んでいるという事実には驚かされる。1960年代には、この落語を例えにした「花見酒の経済」という本が出版されているようだ。経済の専門家の立場でも、この落語は興味深い一席だったのであろう。
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