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<社会人って言葉いりますか?>


明日、いわゆる「社会人」となるので、今の考えを忘備録として残したいと思います。

なりたくない人=「事ある毎に「社会人」面する人」

 ここ数年、「社会人は大変だ」「社会に出たら通用しない」「学業など社会では意味がない」など、「社会人」であることをやたらとアピールし、威圧してくる人々に沢山出会いました。たしかに、定期的な収入、責任の大きさ、理不尽なやりとりetc、学生時代と大きくその程度が変わるのは理解できます。

 一方で、そのような人たちは「社会人」という言葉を使うことで目の前の課題から逃げようとしているようにみえました。自分の課題を、社会人という大きな枠組みで捉えることで、あたかも自分が大仕事をやっているように見せようとしている感じもします。

 思うに、課題というものは、社会人だろうが、そうでなかろうが誰しもが抱えているものです。だからこそ、その大小を個人の属性、すなわち、社会人(もはや正規雇用か否か)か否かで判断していく態度は、極めて相手に対して失礼だと考えます。ただ正規雇用であるだけで、人間として崇高な存在になれるとは到底思えません。そもそも社会人という言葉を使って、自分を大きく見せようとする人が、崇高な存在でしょうか。

 幼稚園児には幼稚園児なり、大学生には大学生なり、またそれぞれの企業・自治体etcにはそれぞれの企業・自治体etcなりの課題、ひいては社会があるはずです。それぞれが、それぞれの課題を、それぞれの社会の中で取り組んでいるはずです。
 
 にもかかわらず、なぜ「社会人」という言葉で社会の多様性を排除しようとするのか。それぞれの社会が越境、交流する今日、「社会人」という言葉でなにかと人よりも優位に立とうとしたり、「社会人だから仕方ないよな」と謎の共同体意識の下で慰め合うことは、様々な属性、年齢の人々と会話する時にもはや壁として現れてくるように思います。

和歌山大のある教授は、地域の人々と関わるにあたって、「ギリギリまで、なるべく、自分が大学教授であることを言いたくない」と仰っていました。それは、等身大の自分として地域の人々と関わりたいから、また地域のことは地元の人が一番知っているからこそ、自分も彼らに学びたいからだそうです。

 いわゆる「社会人」としてのラベルを貼られる僕ではあります。とはいえ、そんなラベルは無視して、この先生のように、等身大の自分で様々な課題に挑みたい、そして多種多様な人々・社会との出会いを喜べる人間でありたいと切に願います。

社会人って言葉、いらんやろ!

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