見出し画像

電波鉄道の夜 112

【承前】

 男の手の中、赤い布飾りを見つめる。その本当の意味は忘れてしまって、それでもやけに心惹かれる赤色。思わず手を伸ばしそうになる。手は中空で止まる。その布を手にする資格が自分にあるとは思えなかった。
 僕は男の顔を見て、首を振る。
「だめですよ。それは僕のものじゃない」
「ああ、だから俺がお前にやるのさ」
 男は出した手を引っ込めない。
「俺はもうこれを持っていても仕方がなくなってしまった。行き詰まりのどんづまり、これを持っていてもなんの意味もなくなってしまって」
 ため息。男の視線が赤い布に落ちる。懐かしみと惜しさのにじむ眼差し。
「だからお前にやるよ」
「でも」
「お前にやる」
 男は立ち上がり、僕の胸に拳を押し当てる。布飾りの垂れ下がる拳を。
「それで、それでもやっぱり意味なんてないかもしれない。お前も擦り切れてしまって俺と同じになるかもしれない。でも、もしかしたらよ、あの子にまた逢えるかもしれないだろ。お前は」
 ふと影がさした。振り返るとゆっくりと灯体を吊ったバトンが降りてきているのが見えた。
「お前はまだどこにだって行ける。忘れなければ、あの子に会える。その時にこいつを、こいつを見ればあの子はきっと喜んでくれる。あの子の最初の日がまだ今日に続いているのをきっとわかってくれる。なあ、だから頼むよ」
 ぎゅっと手を握られる。男が縋るように僕の手を掴む。ゴワゴワとした布の感触を手の甲に感じる。
「こいつを持って行っておくれ」
 懇願するような声。音もなく客席が畳まれていく。ホリゾント幕も、スピーカーも分解されて小さくなっていく。
 僕は空いている方の手で布飾りの端を摑んだ。
「ありがとう」
 男が微笑む。
「でも、気にするんじゃない。お前はお前の行く所に行くんだ。いつか会えたらそれだけでいい」
「わかりました。確かに預かりました」
 僕も頷く。
 ステージは分解され、がらんとしていた会場はさらなる虚無にかえっていく。

【続く】


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?