電波鉄道の夜 110
【承前】
気がつくと僕は観客席にいた。目の前には大きな舞台。たくさんの黒い灯体とミラーボールがぶら下がったトラスの骨組み。反らした背骨のようにそびえ立つ巨大なスピーカー。地平線を覆い尽くすような巨大なホリゾント幕。
そこには誰もいない。灯り一つついていない。ただ灰色にくすんだ光の中、設備は静かに何かを待ち続けている。
振り返る。観客席。
こちらも誰もいない。視界の果てまで空の座席が並んでいる。
「こんもね」
静寂の中に声が聞こえた。疲れ切って嗄れ、それでもよく通るたくましい声だった。
声の方に向き直る。
客席の最前列、中央に寄った辺りのに一人の男が立っていた。若い男。手首に赤い布飾りを巻いているのが見えた。燃える炎のような赤。
その意味を僕は思い出せなくなってしまったけれども、胸に強い憧れが湧いて来る。そして男と話していることを誇らしく思う。
「やめろよ」
僕の目線を受けて、若い男は地面に目を落とした。
「俺はもう憧れられるような存在じゃない」
忌々しそうな声。
「ここにいるの俺ってのはな、ただの擦り切れて押しつぶされた残滓なんだよ」
「そんな」
「あの子を応援してた俺は、あの時のきらきらはもうとっくに失くしてしまったんだ」
声に滲んでいるのは、後悔と郷愁。
「でも、お前もそうなんだろ?」
突然投げかけられた質問に、戸惑う。
「じゃなきゃ、こんなところに来やしないさ。お前もあの子を失ってしまったんだろう?」
「あの子?」
「ああ、そうかい」
男の目が少し大きく開く。憐憫の優しい光が宿る。
「それも、忘れてしまったんだね」
男は立ち上がる。框に手を置いて舞台装置を見上げる。
舞台の上には相変わらず誰もいない。垂れ幕も空白で、誰がここに来るのかわからない。誰か来るのだろうか。こんながらんどうのステージに。
「おいで」
男が手招きをする。全席指定となっています席のご移動はご遠慮ください。聞き知らぬ声が頭に響く。
【続く】
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