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電波鉄道の夜 99

【承前】

 例えば、と考える。
 女性がさっきからしばしば扉の外に呼びかける声のことを。「お姉さま」とそう言っていたような気がする。その声はとても嬉しそうな、弾むような声だった。ずっと待っていた相手の足音を聞いた時のような、そんな声。
 「お姉さん」は女性にとってとても大切な人なのだろうと思う。
 救急箱を撫でる女性の目はなにか大切な思い出を愛おしむような目だった。例えば
「お姉さん、と関係があるのですか? その話は」
 女性の動きが止まった。救急箱を見つめたまま動かない。
「別に、そういうわけじゃないさ」
 ぼんやりとゆっくりと女性は呟く。そのまましばらく黙りこむ。救急箱を見つめたままで、けれどもその向こう、ずっと遠くを眺めながら。 
「待ってるんですよね、お姉さんを」
「ああ」
 僕の問に短く答える。続きを待つ。女性はなにも言わない。また沈黙が訪れる。
 僕はなんとはなしに暖炉を見つめる。赤い炎がぱちぱちと音を立てる。暖かな光にまぶたが重たくなってくる。考えてみると随分長い夜を過ごした気がする。記憶は灰に埋もれて遠くなってしまった。僕の灰まみれの記憶の向こうには、女性にとっての「お姉さん」のような存在がいるのだろうか。遠くに誰か大切な存在がいたかすかな感覚だけがある。その大切がなくなったぽっかりとした喪失感も。
「お前も誰かを待っているのか?」
 女性が突然口を開いた。顔に出ていたのだろうか。
「違うか、探しているんだな。こんな夜を」
「そう、かもしれません」
 自分への追求を避けるような、僕への質問。女性の思惑はわかっていて、それでも合わせて答える。
「見つかるといいな」
「ありがとうございます」
 また、沈黙。少し待って切り出してみる。女性の問いかけの後なら、聞いてもよい気がしたから。
「お姉さんはどこに行ったのですか?」
 女性は遠い目をしたまま答えた。
「さあね。いつも通り出て行って、そのまま帰ってこなかったんだ」

【続く】


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