【連載版】コッペリアの末裔 vol.6 思い出の残滓、身に刻み
顎から出た汗が頬を伝い、さかさまの視界を滲ませた。何もない部屋、壁と床の輪郭が曖昧になる。空いている左手で目拭う。息を吐き出して、集中を整える。
頭の下、伸ばした右腕で体を支えたままゆっくりと曲げる。その反応を読み取って、数ミリ秒遅れてクロエがアシストパワーを
返さない。
当然だ。もうクロエはないのだ。だから、私はただ私の右腕の肉と骨で、体重を支える。右腕が痛みの悲鳴を上げる。それを無視して、ゆっくりと頭を床につける。
一呼吸
逆の動き。ゆっくりと体を上に持ち上げる。歯を食いしばる。鼓動が古いエンジンみたいな音を立てる。
永遠に思えるような30cm。スタートポジションに戻る。
トレーニングの締め、いつものワンアーム・ハンドスタンド・プッシュアップ。
「73回」
カウントを口に出す。終わりが見えてきたけれども、先は長い。息を整える。
何もないこの部屋。半年前まではサイエの部屋だった部屋。
あの日、私が飛び込んで、意識を失った部屋。
この部屋で目を覚ますと、おばあちゃんは何も言わず、プリントアウトされた統計局の告知をよこした。
排水湖で死体が上がったということ。排水による損傷で判別は困難であったが、調査の結果この住民である学生スンドサイエのものであることがわかった。
たぶん、その調査は本当だったのだと思う。サイエは二度とこの部屋に戻ってこなかったから。
オルトも帰ってこなかった。家でも、学校でも、裏市でもオルトの姿は見ない。
二人の不在はしばらく学校や町の噂話の中で飛び交っていたけれども、数日で忘れ去られた。結局のところ、この町では住人の失踪なんてよくあることでしかないのだ。
それから半年。私は毎日この部屋に来ている。
何もない部屋。クロエの残骸が部屋の隅に打ち捨てられている。半年のあいだ、ずっとそのまま。もう動かない。私には直し方も、動かし方もわからない。
でも、私はクロエのことを忘れたくないのだ。だから
「99回」
あと、もう一回。腕の感覚はほとんどなくなっている。それでもクロエのアシストを夢想して、体をゆっくりと下ろして、ゆっくりと持ち上げる。
「100」
大きく息をつく。崩れるように足を地面に下ろす。立ち上がろうとして力尽き、床に倒れ込んだ。クロエなら、勢いのまま立ち上がれただろう。
荒い呼吸を繰り返しながら、バカみたいだと思う。どんなに鍛えたところで、強化外骨格の強さにはなれない。わかってる。けれども、クロエを着てできたことをできるようになろうとする、そうしている間はクロエのことを忘れないでいられる、ような気がする。
息を整え、這うように立ち上がる。鞄を探って筋力回復剤の缶を取り出す。ずいぶん軽くなった。中を覗くとも数粒しか残っていない。残った数粒を手のひらに出して一気に呑み込む。金属のような、生肉のような、あまりおいしいとは言えない味が喉を通り過ぎる。
胃の中で錠剤が溶けてじわりと手足に力が戻るのを感じる。傷つき、千々にちぎれた筋繊維がゆっくりと再び結びつき合っていく。少しだけ前より強固な結びつきを形成しながら。
立ち上がれるだけ回復するのを待って立ち上がると、鞄を持ち上げる。端末と空の缶ぐらいしか入っていないはずなのに、鉛でも詰まっているみたい。なんとか肩にかける。そのまま重たい体を引きずりながら、梯子を上る。
「おじゃましました」
おばあちゃんに声をかける。学校が終わるたびに尋ねてくる私におばあちゃんはやっぱり何も言わない。画面をにらんだままけたたましいタイピング音をたてるだけ。
「また明日」
「ん」
タイピングの隙間に、いつもの曖昧なうなり声のような返事が返ってくる。その背中はこの半年でずいぶんと小さくなったような気がした。
◆◆◆
「Mt.Chun一缶ね、おまたせ」
筋肉ショップの店主、テオキさんがカウンターに筋肉回復剤の容器を置いた。頑丈なカウンターは中身の詰まったイット缶が置かれても軋み一つ上げない。
一抱えほどある缶のラベルで筋骨たくましいランニングシャツ姿の男が朗らかな笑顔を浮かべている。店内を見回すと、さまざまな筋肉回復剤があるけれども、不思議なことにどのラベルでたくましい男女が同じように明るい笑顔を振りまいている。
テオキさんもまた、厚切り肉のような体に太陽のような笑顔を崩さない。半年間この店に通っているけれども、笑顔以外の表情を見たことがない。
「ありがとうございます」
念のため、持ち上げて中を確認する。しっかりと口のところまで鈍色の錠剤が詰められている。
「あ、それ持てるようになったんね」
テキオさんが少し驚いたように言った。といつもと変わらない笑顔は、けれどもどことなくいつもより嬉しそうに見える。
「おかげさまで」
「じゃあ、お祝いにちょっとまけといてあげるわ」
「え、いいんですか」
「いいんよ。最近、みんな機械頼りばっかで、あんまし自分を鍛えようっての少ないから。時代なんかねー、別に悪いとは思っとらんのだけど……」
「ありがとうございます」
笑顔のままテオキさんは少し悲しそうに眉を寄せる。なにか長い話が始まりそうな予感がして慌ててお礼を言う。筋肉崇拝者になるつもりはないけれども、せっかく安くしてくれると言うなら、その方がいい。
言われた額のお金を物理貨幣で支払って、筋肉回復剤の缶を肩に担ぐ。肩にずっしりとした確かな重みを感じる。
「また来ます」
「ん、待ってるよー」
上機嫌な声に送られて、店を出る。ポケットの中にお釣りを突っ込む。ずいぶん安くしてくれたようで、かなりの額が残っている。
辺りを見回す。表とは違って狭く入り組んだ路地。互いに侵食しあうように建てられた建物と建物。その陰になって昼間でも薄暗い建物の隙間に競り合うように有象無象の店が並んでいる。
管理局統合の際の手違いで生まれた管轄の空白地帯。管理から締め出された人や物がそこを占有するのにさほど時間はかからなかった。何度か管理局はパージを試みたけれども、結局コストの面から取り潰すよりも閉じ込めることを選んだそうだ。
管理の及ばない建築たちは日に日に自己増殖した。水平方向の制限からとりわけ垂直方向に伸びていった。無軌道に増築された建物たちは層をなし多層性のコロニーを形成した。わずかでも平面ができるとそこを活用するべく小さな路地店が発生して、日々町の形は変わっていく。
どこかの層には路地裏で事に及んでいる最中に建物ができてしまい、閉じ込められてしまったカップルがいる、なんて話も聞いたことがある。
そんなことを裏道に来るたびにオルトが話していたのを思い出す。無秩序を形にしたようなこの町は、もしかしたらオルトには何か規則性を持って成長しているように見えていたのかもしれない。
ふと視界の端に何かが引っ掛かった。
ありえないところに鏡があるような違和感。その鏡に映った自分にじゃんけんで勝ってしまったときのような不気味さ。
もちろんこんなところに鏡はない。隣を見ると、人影が露店で中古の映像媒体を取り上げているところだった。それは無人機だった。裏市ではそんなに珍しい存在ではない。サイボーグも無人機も、それにおそらくアンドロイドも同じくらいの割合で町を歩いている。
その無人機は比較的生身の人間に近い形をしていた。二本の足に二本の腕、顔に当たる位置はフードを被っていて見えないけれども、タコのような追加義手で金額を示している露店の店主よりは人型に見えた。
無人機は店主にお金を払うと、店と店の間を抜けて去っていった。
私はどうしてだかそれを追いかけてしまった。
◆◆◆
無人機は確かな足取りで路地を進み、一つの建物のなかに消えていった。込み入った路地の中の一つ、取り立てて特徴のない忘れ去られたような建物だった。元の持ち主はどこかに行ってしまったのだろうか、人の気配はない。
朽ちかけた扉をそっとあける。無人機は見えない。確かにこの建物に入っていったと思うけれども。
人のいない建物に無人機が帰っていくことがあるだろうか?
好奇心と警戒心がせめぎ合う。オルトとサイエがいたらどうするだろう。
扉の中にそっと身を滑り込ませる。端末を出して、明かりを灯す。頼りない光が廊下を照らし出す。思いのほか長い廊下が暗闇へと続いている。
足音を殺して廊下を進む。クロエの足運びを思い出しながら。
床にはいくつかよくわからない模様が描かれている。端末に映すと、「第七研究室」「実験室」「飼育室」などの文字に翻訳される。何かを研究していたのだろうか。
なにか音がした気がした。いくつか先の部屋からだ。
そっと覗く。ガラクタの詰め込まれた部屋。無人機はいない。
「この部屋だと思ったけど」
小さく独り言ちて、ガラクタの中を調べる。朽ちかけた資材や備品の山。ごちゃごちゃと無秩序に押し込まれたガラクタたち。どこか懐かしさを感じる無秩序。
その無秩序の中に、ほんの少しだけの規則性があるような気がした。混沌の中に紛れたわずかな調和。物の配置や数が、ある種の美意識に沿って決められているような。それを辿ると、一つの棚の前にたどり着いた。
棚を押して動かしてみる。案外、軽く動く。
棚の下には大きな穴が開いている。
穴の中には梯子がどこまでも続いていた。
【つづく】
書きました。修行回のある漫画はウケない、という話を聞いたことがありますが小説の場合はどうなのでしょう。武田綾乃師父の小説なんかは良く練習する場面が出てくるような気がします。解像度が高ければ許されるのでしょうか。映画ではロッキーとか有名ですよね。ベスト・キッドは修行の内容の面白さで引っ張っているところがあると思いますが。
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