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「死にたい」とおもうとき。

今日はひどく忙しくて、仕事帰りに息子を保育園に迎えに行くまでの間、駅のホームで電車を待っているとき、「あー、死にたいな」と思った。

適度に休憩取ればよかったのかもしれない。どうせ時給だし、適当に手を抜いてもよかったかもしれない。だけどその時は「死にたいな」と思った。

「死にたい」というと、「軽々しくそんなことを口にするのはよくない」という声も聞こえてきそうだ。もっとも、生きたくても生きることができない人だっている。

ただ、楽しいことや嬉しいことが続いて「まだまだ生きていきたい」と思うことがある反面、波のある人生の中「死にたい」とふと思うときだってある。私だけでなく、そう思ったことがある人はきっと少なくないはず。

最近読んだ本で、燃え殻さんの『すべて忘れてしまうから』にあった一節で、「『死にたい』を『タヒチ行きたい』に変えてみるとかどうでしょう。」という言葉があった。私はタヒチがどんなところなのかパッと思い浮かばないので、では自分が行きたいところとして「フランス行きたい」に変えてみる。すると、どうか。たしかに、その時はそれも楽しそうだな、と思うのだが、疲れている時にフランスに行く自分を想像しても、あまり休めている想像ができないのである。フランスに行きたいのは、蚤の市にいったり、お店を周りたいからで、そんな目的で今の私がフランスに行っても、日常に戻ってきたらきっと疲れている。

じゃあ、何に置き換えたらいいのだろう。
「お金1億円ほしい」に置き換えればどうか。1億円あると確かにいろいろ解決しそうではある。当面働きに行かなくても良さそうだし、好きなことをして過ごせる。

さて、それで解決するのだろうか。

これを書いている少し前、俳優の三浦春馬さんが自殺したことがニュースで話題になった。このことは私もとても驚いて、何であんなに仕事もたくさんあって、お金にも困っていなさそうで、人から好かれていそうな人が自ら命を絶ったのだろう。私自身、俳優としてもとても魅力的な人だと感じていただけに、本当に悔やまれる。

仕事が順調でも、お金があっても、人望があっても。それでも心に僅かな隙間があって、それがどんどん大きくなり、「もう生きていたくない」と思ってしまう。それってどんな境地なのだろう。彼は何を思ったのだろう。

自分のことに戻ると、きっと私はこの先三浦さんと全く同じような境地に至ることはないのだろうけど、でも仮に自分に働かなくてもお金が十分にあって、やりたいことやれて、人からも好かれたとしても、何か満たされないということはやっぱりあるのだろうと思う。だとすると、お金があったとしても「死にたい」という気持ちは拭い切れないかもしれない。

人間って欲深い生き物で、どこまでも満たされないようにできている。人として成熟している人は、ほんの些細な幸せで満足して今の自分は足りていると思うのだろうけど、私はそんなにできた人間でもない。

自分に足りないもののことを思い、先が見えず不安で時には「死にたい」と思うことがある。だけど、「本当に死にたいわけじゃない」ということに気が付けたら、疲れている自分に今必要なものが見えてきて、もう少し生きられるのかもしれない。とりあえず今の私に必要なのはきっと仕事中に取れなかった分の休息で、今日はしっかり休もうと思う。

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